12世紀にカンタベリー大司教トマス・ベケットが国王に暗殺された事件をめぐる展覧会「Thomas Becket murder and the making of a saint(~2021年8月22日)」に行ってきた。
私はこの人物・事件を知らなかったのだが、展示の中で詳しく知るにつれ、これがとても影響の大きな事件であることがわかってきた。加えて、死後熱狂的人気を誇り、すぐに聖人に加えられたという人物でもある。
この記事では、同展で見られた展示品を挙げながら、トマス・ベケットの生涯と暗殺事件、その大きな影響について一篇の物語のように見ていこう。
ベケットについて興味深いのは、主に以下の点である。
- 司祭でもないベケットを国王がカンタベリー大司教(当時のイングランドの宗教最高峰の地位)に抜擢
- 暗殺後2年でローマ法王により列聖(故人を聖人に加えること)される
- 暗殺後ヨーロッパ中でカルト的な人気を得て、さまざまな奇跡伝説が作られる。ベケットの墓を訪れるためにカンタベリー大聖堂への巡礼者も激増
- 上記の点では、チョーサーの『カンタベリー物語』を生み出したきっかけであるともいえる(詳しくは後述)
ベケットの人生と密接に関わるカンタベリー大聖堂は、現在はイングランド国教会の総本山であり、またユネスコ世界遺産にも登録されている、巨大で美しい大聖堂だ。
トマス・ベケット暗殺事件とは?
1170年12月29日、イングランド国王ヘンリー2世に仕える騎士4人が、カンタベリー大司教のトマス・ベケットを暗殺するという事件が起きた。
ベケットの骨の欠片または血痕のついた布を入れていたとされる聖遺物箱。外側には、(ここでは4人ではなく)3人の騎士(左側)がベケット(中央の人物)を襲う様子が描かれている。
この事件は、瞬く間にヨーロッパ中に広まり、人々を震撼させた。カンタベリー大司教と言えば、当時イングランドのカトリック教会最高峰の地位を持つ人物である(この頃、イングランドの宗教はまだ国教会ではなくカトリックであった)。
また、国王と大司教は、元は大変親しい仲であった。一体、何が起こったのだろうか?
トマス・ベケットの生涯
トマス・ベケットは、ロンドンの裕福な商人の家に生まれた。彼は元々、王家にも教会の権威にも縁はない生まれであった。
野心を持った青年に育ったベケットは、イングランド南東部にあるカンタベリー大聖堂の大司教に仕えるチャンスを獲得した。当時、この大聖堂は学問の中心地でもあり、ベケットはここで務めた9年の間に法律や外交を学んだ。
国王の信頼を得て大司教に任命される
1154年、イングランド王に即位したヘンリー2世は、自分の周りに置くための信頼できる人物を探していた。そこに、ベケットを気に入っていたカンタベリー大司教は、ベケットを国王の大法官に推薦したのである。ベケットにとっては大出世だ。
こうして国王とベケットは、近く、親しい仲となっていった。
1162年、カンタベリー大司教の逝去に伴い、ヘンリー2世はベケットをその後任者に任命した。ベケットは司祭ではなく、また世俗的な生活を送っていたのでこれはかなり大胆な人選だったと言える。
上の展示物はベケット本人のものではないが、大司教は似たようなものを身に着けていたとされる。大きな被り物と杖、指輪の3つである。指輪は、「教会と結婚する」ことの象徴とされる。
この人選には、王のベケットへの信頼に加え、政治的な思惑があった。ヘンリー2世は、ベケットに大法官を務めたままでいながら大司教を兼任してほしいと思っていた。そうすれば、王室が教会とより深くつながり、宗教面もコントロールしやすくなるからだった。
王とベケットの亀裂
だが、王の思惑はうまくいかなかった。ベケットは大法官を兼務することを断ったのである。王はそれを裏切りとみなし、この時から、2人の仲は冷めていった。
2年後の1164年、王との確執から身の危険を感じたベケットは、国外へ逃亡し、ヘンリー2世のライバルの庇護のもと、6年間逃げ続けたという。大司教がいなくなってカンタベリー大聖堂はどうなっていたのであろうか。かなりカオスな状況である。
上の写本では、ヘンリー2世(左端)がベケットが自分の許可なしに国外逃亡したことに怒り、制裁としてベケットの親族を追放している様子。右には、ベッドに横たわり医師の診察を受けているベケットの姿が描かれている。あまりの心労に、ベケットは体調を崩していたという。
ベケットの死
ベケットが大司教となってから8年後の1170年、ヘンリー2世はベケットが自分の息子の戴冠式に関わった司教らを破門したことを知る。この時、すでにベケットはカンタベリーに戻ってきていた。
王は、ベケットを「裏切り者」と呼び怒り狂った。これを聞いた4人の騎士は、ベケットを捕まえるためのカンタベリーに直行したという。
この記事の冒頭で「ベケットが国王に暗殺された」と書いたが、結果的にその形になったとはいえ、実際には国王は直接暗殺の命令を出したわけではなく、この騎士らが自分たちで計画を立てて飛び出していった、ということであるらしい。
そして、12月29日、騎士らはカンタベリー大聖堂にたどり着き、ベケットを剣で殺害した。上の絵の下半分では、騎士がベケットを剣で攻撃する様子が描かれている。大聖堂は、残虐な事件の舞台となってしまったのだ。
ベケットの殉死後、人気がカルト的に高まる
ベケットの死の知らせはヨーロッパ中を駆け巡り、多くの人々の怒りを呼んだ。ヘンリー2世は当初、この暗殺に関わったことを否定した。
殉死した聖職者として、ベケットを熱狂的に崇める動きがヨーロッパでは広まっていった。ベケットには奇跡的な治癒の力があるという伝説が生まれ、多くの巡礼者がその力にあやかるためにカンタベリー大聖堂のベケットの墓を訪れるようになった。
カンタベリー大聖堂が超絶人気の巡礼地となったのは、このベケット事件がきっかけだったのである。
そしてその人気から、ローマ法王はベケットを死後たった2年で、聖人に加えたのだった。
聖トマスとなったベケットの人気はますます高まった。
ヨーロッパではイタリアからスウェーデンまで、広い地域でベケットを崇めるさまざまな工芸品が生まれた。その多くに、ベケットの人生で最もセンセーショナルな殉教(暗殺)の場面が表されている。
ヨーロッパ中でベケットを奉る工芸品が作られる
この洗礼盤の側面には、ベケットが騎士の剣に倒れる様子が浮彫で彫られれている。写真には写っていないが、他の場所には、騎士たちに暗殺の命令を下すヘンリー2世の姿が彫られている(ここでは、王が命令したとしているようだ)。
ノルウェーでは、聖トマスは当時国で2番目に慕われていた聖人であったという。
この聖遺物箱にも、ベケット暗殺の場面が描かれている。騎士の剣は彼の頭に刺さっている。ベケットと騎士の間で地面に落ちる物体は、ベケットの頭蓋骨の破片を表したものだという。
ヘンリー2世の懺悔
さあ、ここまで聖トマス熱が高まると、ヘンリー2世の立場はますます悪くなる。ローマ法王の心象も損ねる事態になっていたらしく、王は自己苦行を行って法王の機嫌をとろうとさえしたという。
2年後、ついにヘンリー2世はベケットの墓を訪れ、その前にひざまずき自らの罪を認めたという。
こちらは展示内の説明文に掲載されていた参考画像だが、ヘンリー2世がカンタベリー大聖堂の修道士たちに罰を受けている場面。王は半裸になり、許しを請うような姿勢をとっている。この時から、ヘンリー2世は聖トマスを自らの守護聖人にしたという。
ベケットの奇跡にまつわる伝説の数々が生まれる
ベケットの暗殺と、ベケットにまつわる奇跡についての話は、ヨーロッパ中に広まった。例えば、ベケットの血には奇跡的な力があり、その血を染み込ませた布を体の調子の悪い部位にあてると治癒できる、などだ。
カンタベリーへ巡礼した人々は、上の画像のようなフラスコを購入し、修道士にベケットの血を薄めたものを注いでもらい(本物だったのだろうか……)、自分で使ったり、家族のために持ち帰ったりした。こうしたフラスコは、オランダ、フランス、果てはノルウェーでも見つかっている。
暗殺の現場を実際に目撃していた修道士が書いた書物。この本には、その修道士が巡礼者から聞いたベケットの奇跡に関するエピソードが270話も収録されているという。
死後になって急に奇跡のエピソードが出始めたのは興味深い。劇的な死を遂げた大司教であること、また列聖されたことが、当時の人々にさらなる想像力をもたらしたのだろうか。
カンタベリー大聖堂にあるステンドグラスの一部を、この展示では見ることができた。ベケットの奇跡のエピソードが描かれている。
ここでは、3つのシーンにまたがって、ある男性のエピソードが語られている。
左の絵は、ハンセン病に苦しむ男性が、足をベケットの血で清めているところ。中央では、すっかり体のよくなった男性が馬に乗って大聖堂を後にする姿が描かれている。右側は、同じ男性がベケットの墓に感謝を捧げている場面だ。
ここでは、怪我をしている女性がベケットの墓を訪れる場面が表されている。眠り込む女性(左端)の夢に赤い衣をまとったベケットが現れ、治癒の予言をする。この後、女性は怪我が治ったという。
ベケットの服の色が一部落ちているため、ちょっと血しぶきのように見えてしまう。
マグナ・カルタ(大憲章)
憲法史の草分け的存在と言われるマグナ・カルタの内容は多岐にわたるが、代表的なものに「政教分離(教会は国王から自由である)」がある。大司教ベケットの国王との対立が直接この法律の成立に影響したわけではないにせよ、その他のさまざまな要素や出来事と絡み合いながらイングランドの政治の在り方を変えていった要因の一つであろう。
このマグナ・カルタは、法による支配の先駆けであり、現在でもイングランドの法律の一部として使われる現行法である。
チョーサーの「カンタベリー物語」
こうして、カンタベリー大聖堂は長きにわたり大量の巡礼者を抱えるようになった。
この背景をもとに1300年代に執筆されたのが、かの有名なジェフリー・チョーサーの「カンタベリー物語」である。この書は、ベケットの墓を巡礼する、さまざまな職業や身分の人々が語る物語で構成されている。ベケット人気がなかったらこの物語は生まれていなかったとも言える。
カンタベリー物語と同年代に作られたであろう、カンタベリーの土産物。画像にあるような小さなフラスコやバッジなどの土産物が安価に大量生産された。人気巡礼地だけあって、お土産ビジネスもはかどったのだろう。
もちろん、こうした土産物にも「聖トマス」の名が刻んであったり、ベケットの姿が彫られている。また、治癒の力が宿ったお守りのようなものとして使われていたようだ。
聖トマス信仰の破壊と迫害
一般の人々のみならず、ヘンリー2世より後の王族にも代々信仰されてきた聖トマスだが、この信仰は1538年から王室の命令により壊されることになる。
こうした弾圧を命じたのは時の王ヘンリー8世で、元々は彼もカンタベリーのベケットの霊廟に5回巡礼するほど熱心に信仰していたのだ。それを大きく方向転換したのは、イングランドの宗教改革が背景にある。
カトリック教会との対立からイングランド国教会を立ち上げたヘンリー8世は、国内のカトリックの修道院や教会を次々と閉鎖した。
ベケットの霊廟もこの流れの中で破壊され、ベケットの骨も取り出されて損壊された。さらに、書物の中の聖トマスに関するページは、塗りつぶされたり切り取られたりした。
聖トマスの名は、あらゆる書物からすべて消去され、まるで存在しなかったかのように葬られたのである。
しかしそれでも、聖トマスをひそかに自宅で信仰するイングランド人はいたし、関連する品物を国外に出して守った人たちもいた。また、他のヨーロッパの国では、堂々と信仰が続けられていた。
だからこそ、現代の私たちが800年以上前に起きたセンセーショナルな殺人事件について知ることができ、ベケットの物語を紡ぐことができるのだ。
大英博物館「Thomas Becket murder and the making of a saint(~2021年8月22日)」
料金:大人17ポンド、16~18歳15ポンド、15歳以下無料
住所:Great Russell St, London WC1B 3DG
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