Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。
本シリーズのこれまでの記事はこちら。
前回の記事「博物館展示からロンドン史を見る⑤(中世後編)ペストの発生と医療、食文化」で、1000年以上ある中世は終わった。ここからは、近世に入っていく。
ロンドンの近世とは、イングランドで16世紀の初頭あたりから宗教改革が起き、ローマ=カトリックを抜けてイギリス国教会を立ち上げた時代から、1707年にグレートブリテン王国が成立するまでの150年程度の時代のこと。
この絵画は、元々はロンドンのウエストミンスター寺院内に設置されていた祭壇の一部であったらしいが、ヘンリー8世の治世下に寺院から撤去された可能性があるという。
撤去された原因は、カトリックに反発する動き、宗教改革である。
というわけで、今回の記事では、イギリスの宗教、ひいては社会の在り方を現在に至るまで根本的に変えてしまった原因の1つ、宗教改革について説明していく。これももうしっちゃかめっちゃかなのだが、なるべくわかりやすく書いていきたい。
1500年代前半~ヘンリー8世の離婚問題から起きた宗教改革
1500年代初期、ヨーロッパ全体でキリスト教に大きなうねりが迫っていた。カトリックの体制に反発する勢力(プロテスタント)が現れ、各地で宗教改革が起こっていたのである。
なので、その流れがもともとイングランドにも来ていたという背景はある。だが、イングランド宗教改革の直接のきっかけは、当時の王であったヘンリー8世(在位:1509~1547年)の離婚問題だったのである。
このヘンリー8世、6度も結婚しているのだが、彼が「カトリックが離婚を許してくれないけど俺は離婚したいって主張したら、カトリックの親玉のローマ教皇と仲悪くなった! もうカトリック抜けて新しい宗派作るもんね!!」というような感じで宗教改革を起こした。全然宗教的でない原因である。
最初の王妃との間に、後継ぎである息子が生まれなかったヘンリー8世は、妃と離婚し他の女性と結婚したがっていた。しかし、カトリック教会はそれを許さなかった。なぜなら、妃は、ヘンリー8世と結婚する前にその兄と結婚していた。ヘンリー8世との再婚は当時教会法に反していたが、ローマ教皇から「特別に」許可をもらっていたのである。
なので、特別扱いまでした結婚をナシにすることはできない、というのがカトリック教会の主張である。こうしてローマ教皇VSイングランド王家の対立が勃発し、ヘンリー8世はカトリックを脱してイングランド国教会を新しく作ったのである。
カトリックに反発する体制としてイングランド国教会がプロテスタント派に分類されることもあるが、ヘンリー8世は大陸で起きたプロテスタント運動を嫌っており、イングランド国教会は、教義的にカトリックと近いものであると宣言した。
この時から現在まで、イングランド国教会がイングランドの主な宗教として扱われてきた。
カトリック系修道院を次々と閉鎖
ヘンリー8世は、カトリックの力を弱めるためにカトリック系修道院や教会を次々と閉鎖し、その土地を売り、家具や写本、宝石は国庫に収め、王権のための富を増やしていった。この政策は、ロンドンに劇的な影響を及ぼした。なぜなら、当時は教会がロンドンの土地の2/3を所有していたからである。
1538年に解体されたマートン小修道院(Merton Priory)の天井から切り出された石の彫刻装飾。近くのノンサッチ宮殿に使われるために切り出されたが、これはどこにも使われなかったパーツだという。
このように、解体された教会や修道院の建築材料は新たな建物に再利用された。
カトリックが関係している数々の福祉施設や修道院が経営していた病院も解体された(この中には、「博物館展示からロンドン史を見る④(中世中編)ロンドンの文化と人々の暮らし
」で紹介した、最古の精神病院Bethlehem病院も含まれている)。
病人は行くところがなくなってしまったため、ヘンリー8世は市の財政を使って新たに病院を建設した。
元教会や修道院であった場所には、ヨーロッパ大陸からやってきたプロテスタントの難民や、市民や宮廷に仕える人々が住むようになった。
そしてこれが、現在に至るまでこの都市の形態を永遠に変えたのである。
1547年、ヘンリー8世が亡くなると、息子(そう、ヘンリー8世は度重なる再婚の中で男児を得たのである)のエドワード6世が王位を継いだ。エドワード6世は9歳で即位したため、周囲の権力者たちの操り人間のようになってしまった。周りの役人が実質権力を握っていたのである。
ロザリオは、カトリック教徒が祈りの時に使う数珠のようなもの。カトリックのものを次々と排斥していったイギリスでは、ロザリオの所持は1549年に違法となった。だがロンドンの人々は、内密にロザリオを持ち続けていた。
これが違法となった年と同じ1549年、エドワード6世の治世下に、「イングランド国教会はプロテスタントの教義を採用する」として教義を記した「聖公会祈祷書」が作られた。「イングランド国教会はカトリックの教義に近い」と言っていたヘンリー8世の宣言は覆されてしまったわけだ。
1553年:またカトリックへ逆戻り? 血みどろの政策
エドワード6世は病弱で、1553年に15歳という若さで亡くなってしまう。その後王位を継いだのは(ここに書ききれないほど色々あって)、姉のメアリーである。メアリーはヘンリー8世の娘であるが、プロテスタントが嫌いで、カトリック教徒であった。
このメアリーが、血なまぐさい政策を次々と行い恐れられた、「ブラッディー・メアリー(血まみれのメアリー)」である。カクテルのブラッディーマリーはこの名にちなんでつけられている。
彼女はもう一度カトリックを復活させようとし、カトリックの教会や修道院を再開させようとした。装飾や法具もすべて元通りにしようとしたので、上で書いた通り、建築の装飾や道具をすべて失った教会が、それらをもう一度すぐに得るのは困難だった。
だが、もしできなかった場合には厳しい懲罰が待っていた。
また、メアリーは多くのプロテスタント教徒を処刑した。その処刑場となったのが、この展示が見られるロンドン博物館のすぐ隣にある、スミスフィールド・マーケットである。ここは現在は一大精肉市場となっている。
一般人は宗教改革にすぐ馴染めたのか?
気の毒なのは国民である。これまでカトリック教徒だったのにいきなりヘンリー8世の治世でイングランド国教会となり、その後メアリーの治世でまたカトリックに変わった。振り回されっぱなしである。
もちろん、このような急激な変化が一般市民にまですぐ浸透したわけではなかった。そのため、イングランドの大衆がイングランド国教会に変化し始めていったのは、メアリーが亡くなって再びイングランドがプロテスタント化していった時のことであるされている。
さて、ここら辺から、ロンドンの状況はさらにカオスになっていく。今までも十分カオスだったが。
さらなる戦争、ペストの再流行、そしてロンドンを焼き尽くした大火事がこの後続いていくのだ。その中で、ロンドン市民たちはどう生きていたのだろうか。
次回は、市民戦争と一般市民たちの暮らし、文化について紹介する。中世に比べて、どう変化したのだろうか。
Museum of London
住所:150 London Wall, London EC2Y 5HN
入場無料
コメント