Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。
本シリーズのこれまでの記事はこちら。
前回の記事「博物館展示からロンドン史を見る⑦近世(中編)ロンドンの人々の暮らしとイングランド内戦」ではロンドン市民の暮らしと文化、そしてイングランド内戦(清教徒革命)を紹介した。
現代に向けて確実に文化や生活は発展してきたのだが、ここで大きな災害が2回起きてしまう。
ペストの大流行と、とんでもない大火事が立て続けに起こるのである。今回は、ロンドンをあわや崩壊させる寸前となった原因の、ペスト流行とロンドン火災について見てみよう。
1665年:再びのペスト大流行
これより前に、大規模な「黒い死(ペスト)」が流行ったのは中世であった。
今回の感染は、1665年の2月に始まった。そしてわずか7カ月の間に、当時のロンドンの人口の1/5、10万人を死に至らしめたのである。
これがイングランド史で最後の大規模なペスト感染となった。
ペストを広めたのは、クマネズミの毛にいる、ペストに感染したノミであった。ノミは家具や衣服の中で数週間生き延びられるため、感染は個人や物を介して、家から家へ瞬く間に広まっていった。
ペストの治療と迷信
人々は当時、病魔は嫌な臭いから運ばれてくると信じていた。その反対で、良い香りは病気から身を守ってくれると考えていたのである。
ラベンダー、クローヴなどの香りの他に、「アンバーのリンゴ(pomme d’ambre)」という、龍涎香と動物の匂い、花の香りなどを混ぜたものがペストを撃退するとされていた。もちろん迷信に過ぎない。
医師たちの治療も、当時は迷信と変わらないほどへんてこなものだった。リンパのしこりに生きた鶏のお尻を置いたり、カエルを縫い付けた袋をお腹に乗せたりといった、黒魔術のような治療が行われていたのである。
また、ロンドンの人々の多くは、煙草の煙がペストを追い払ってくれると信じていた(古代から世界中で煙草は悪を遠ざけたり不思議な力があると信じられていた)。
これを利用して儲けようとした煙草売りたちが、さらにこの説を後押しし、人々は煙草を頻繁に買い求めたという。
インドのゴアにあったイエズス会の薬局で生産された石で、胃石や貝殻、琥珀、ムスク、樹脂などで作られている。東インド会社が輸入しロンドンにも入ってきており、大変貴重なもので、所有者が10回も変わったとされる。
この石は薬だと信じられており、これを削って水と混ぜ、胃腸の不調や、熱、ペストの際に飲んだという。
ペスト以外の病気にも、こうしたおまじない(当時の人は本気で信じていたわけだが)はよく使われた。
天然石は不思議な力を持っているとされていた。メノウは虫刺されに効いたり神経を落ち着かせたりする効能があるとされ、胃石(鹿や羊などの動物が消化管内に持つ石で、ミネラルや食物が押し固まったもの)はうつ症状の対処薬や解毒剤として用いられていた。
右側のナキノキの樹皮は、1630年代にアンデス山脈からヨーロッパに輸入されたものである。寄生虫を殺し、マラリア熱を治すとされていた。当時、マラリアもイングランドで広がっていたが、死に至ることは稀であった。ペストの方がよほど恐ろしい病気であったのだ。
当時のロンドンは、人が多く汚い街で、狭い路地にこうした木造の家が所狭しと立ち並んでいた。また、工房の釜や工場の煙は大気汚染の原因となった。
こうした劣悪な環境下では、一度火災が起きたら広まるのも早かった。まだペストの打撃から立ち直っていないロンドンを、翌年、大火災が襲うのだった。
1666年:ロンドンを焼き尽くしたロンドン大火
1666年の、長く暑い夏を終え、ロンドンの空気は大変乾いていた。
そんな中、9月2日の日曜日、午後1時の昼下がりにその火事は起きた。Pudding Laneという通りにあった、Thomas Farrinerというパン屋のかまどで火災が発生した。これがロンドン大火の原因になったという説がある。犯人探しについてはこの記事の最後に書いている。
乾き、ごみごみとした、木造建築だらけの街中に火が広がるのは簡単だった。家から家へと火は燃え移り、巨大な炎と化した。強い扁東風が、さらに火を広げた。
人々はなすすべなく、持てるだけの荷物を持ち、街から逃げようと走り回った。また、病気や怪我で動けない人を他の人々が運んで救出する姿も見られたという。
火災は5日間続いた。死者は少なかったが、この大火でロンドンの4/5が被害を受け、数千人が家を失った。
この絵画作品は大画面の油絵で、かなり迫力がある。火の海に包まれる恐ろしさ、阿鼻叫喚の街の様子がありありと描かれている。ぜひ博物館内で実物を見てほしい。
火災で奮闘した人たち
ほとんどの市民は逃げ惑ったが、消防隊の人々は、消火活動を必死で行っていた。
船乗りや兵士たちは火薬を使って、これ以上火が燃え広がらないように家を吹き飛ばしていった。
このバケツをリレー式で回して水を運んでいたらしい。が、この大火事の前にあまり効果はなかったことだろう。
このロンドン大火の後、本格的な噴水道具が作られた。
これがその道具で、一度に4.5リットルの水を噴出できる。しかし、現在の消防車のホースから出る水は1分間に400リットルというから、性能としてはこれはまだまだ本当に初期段階のものである。
ロンドン大火は予言されていた?
ロンドン大火の15年前に、ウィリアム・リリーという天文学者が出版した本で、中にはロンドン大火を予言するような内容が含まれている。
この見開きでは、右側に燃え盛る街が描かれている。違うページには、双子が炎の上に吊るされている場面が表されているという。占星学において、ふたご座はロンドンの運命を示す星とされていた。
これ以外にも、ロンドン大火の予言と見られるものが数多くの人々によってなされたという。
ロンドン大火の被害
この火災の被害は甚大であった。1万3200軒の家と、教会109堂のうち87堂が失われた。場所によっては、火災後数ヵ月燻りが続き、ロンドン全体の被害総額は1000万ポンドに上ったとされる。
死者は数人であったものの、多くの人が家や財産を失い、約10万人がホームレスになった。
ロンドンを離れて帰ってこない者、親せきや友人の家に厄介になる者もいたが、多くの人はロンドン郊外で野宿を余儀なくされた。
この後ロンドンは復興していくわけだが、ほとんどの住宅の再建に10年かかり、教会などのより大きな建築物はさらに長い年月を必要とした。この火災で焼失してしまったセントポール大聖堂の再建が終わったのは、1711年。火災から45年経ってからのことであった。
この火災をきっかけに世界初の火災保険が誕生
このロンドン大火が起きた時、まだ火災保険はこの世に誕生していなかった。つまり、家を災害で失った人々は、家の修復費用を自分たちで賄わなければならなかったのだ。
この悲劇的な災害を経て、世界初の火災保険がイギリスで誕生した。ニコラス・バーボンという男性が1680年に火災保険会社を立ち上げたのだ。その後次々に火災保険会社が興った。
こうした火災保険会社の印は、各住宅の外壁に取り付けられた。その家がどの保険会社に加入しているかを示すためであった。
Hand in Hand Fire Officeは1696年に設立し、この印はセントポール大聖堂近くの家に取り付けられていたものだ。
ロンドン大火の犯人は誰なのか?
ロンドン大火を最初に引き起こした人物について、街中ではさまざまな噂が飛び交った。だが、誰一人確かなことはわからなかった。
上で書いたように、パン屋のかまどから出火したため、パン屋が犯人だという説。
また多くのロンドン市民は、この火災を神による罰だと信じていた。当時の王チャールズ2世もそう考えていたという。
当時、イングランドはフランス、オランダと戦争状態にあった。火災の混乱状態をフランスかオランダの襲撃だと勘違いした者もいたという。
また、前の記事「博物館展示からロンドン史を見る⑦近世(中編)ロンドンの人々の暮らしとイングランド内戦」で触れたが、この時代、ヨーロッパ全体でカトリックVSプロテスタントの争いが起こっていた。イングランドはプロテスタントであったため、この火災をカトリック側の計画だと考えたものもいた。
火災の犯人として処刑された人物がいた
そんな中、「自分が火災の犯人である、パン屋で火事を起こしたのは自分だ」と自白した男がいた。
ロバート・ヒュバートという人物で、彼は1666年の10月27日に処刑された。
この石板は、件のパン屋があったPudding Laneに設置されていたもの。ロバート・ヒュバートを責める文言が買書かれている。
実は、当時彼の裁判にかかわった裁判員たちは、ロバートは精神的におかしく、無実であったと考えていたという。しかし彼は処刑されてしまった。それは社会や人々の怒りがそこにやり場をもっていったのかもしれないし、他に理由があったのかもしれない。
この石板は1700年半ばに取り外された。あまりに多くの人々がこれを読むために立ち止まるので、渋滞がひどくなってしまうからだった。
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さて、首都ロンドンがペストと火災の大打撃を受けながらも、この後イギリスは世界を支配する大英帝国へと成っていく。ロンドンの近代については次回の記事で説明していきたい。
次回の記事:ロンドンの近代(後日公開されます)
Museum of London
住所:150 London Wall, London EC2Y 5HN
入場無料
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