「ランプの貴婦人」がもたらしたもの:ロンドン、ナイチンゲール博物館でその軌跡を追う

2019年7月26日◆ミュージアムの展覧会, その他の美術・博物館の展覧会

歴史の教科書には必ず出てくる、「ランプの貴婦人」と呼ばれたイギリスの看護師、フローレンス・ナイチンゲール(1820年〜 1910年)。

イギリスでももちろん偉人の一人として讃えられており、彼女の生涯について取り上げた博物館もロンドンにある。

ナイチンゲールを描いたステンドグラス 20世紀前半

展示されていたステンドグラス。ガイズ・ホスピタルというロンドン内の病院から発見されたもので、ナイチンゲールがいかに慕われていたかを示している。

今回は、この博物館を紹介しながら、ナイチンゲールの人生と成し遂げたことについて解説したい。

ロンドン内の病院に併設しているナイチンゲール博物館

ロンドン中心部のテムズ川南岸に、セント・トーマス病院という大きな総合病院がある。
この病院はナイチンゲールが1860年にナイチンゲール看護学校を創設した場所であり、現代看護教育の祖を築いた。現在、看護学校は病院からごく近いキングス・カレッジ・ロンドンのキャンパス内に移動している。

この病院に併設されているのが、ナイチンゲール博物館だ。彼女の私物や、当時の医療関係の遺物など、3000点を所蔵している。

展示室の壁には、ナイチンゲール以外関連以外にも、軍隊の医療現場や当時の看護婦たちの様子を捉えた写真、現在のイギリスの看護師たちのインタビュー映像なども展示されている。

ナイチンゲールとは何者か

彼女は裕福な家庭に生まれながら、当時身分の高い女性が着く職業ではなかった看護婦の仕事に興味を持ち、その夢を実現させた人である。

そして、1853〜1856年のクリミア戦争(イギリスを中心とする多国籍軍VSロシア軍の戦い)の際に戦地病院に赴き、そこで献身的に病人の看護にあたったほか、病院の体制の抜本的な見直し、看護婦の教育などを始めた。
戦争が終わって帰国した後も、その生涯を通じて近代看護の基礎を築き上げた。

彼女は写真に写されるのを好まなかったため、限られた写真しか残っていない。豊かな茶色の髪とグレーの瞳を持ち、172cmと当時のイギリス人女性にしては背が高く、細身であったという。動物が好きで、若い頃にフクロウをペットとして飼っていた他(この記事内でも剥製の写真を掲載)、年老いてからは猫を代々飼い続けていた。

展示室内には、ナイチンゲールの肉声を聞けるコーナーもある。彼女が70歳頃の時、ロンドンで蓄音機を用いて録音されたものだ。

音質は良くなく不明瞭な箇所もあるが、落ち着いた、しかしハキハキとした雰囲気が伝わってきた。年齢よりずっと若く、40代くらいの印象だ。

ナイチンゲールの生い立ち

立派な教育を受けた幼少期

1820年、ナイチンゲールは彼女の両親のハネムーン先であるフィレンツェで誕生した。フローレンスという名前は、フィレンツェの英語読みをそのままつけたものだ。

彼女はイングランドの田舎で、贅沢な環境の中育った。
一つ年上の姉と共に、彼女は家で家庭教師と父親から教育を受けた。フランス語、ラテン語、ドイツ語を学び、聖書を読み、健康のため散歩を欠かさず、ピアノと歌、スケッチを嗜んだ。

ナイチンゲールが詩を手書きで書き写したノート

11歳になると、父による数学の授業が始まった。当時、ビクトリア朝の父親がすることとしては珍しく、これが彼女の生涯において統計へ興味を持つきっかけを作った。

生物にも興味を抱いていたナイチンゲールは、貝の図鑑(写真上)や植物図鑑を熱心に読み、また自分で貝殻をコレクションしていた(写真下)。

彼女が受けた教育は当時女子よりも良い教育を受けていた男子と同程度の水準であり、これは大変珍しいことだった。しかし、女性である彼女に求められたのは、淑女としての振る舞いを身に着け、良い結婚をすることだった。

「看護婦になれ」という神のお告げ

幼少期から、ナイチンゲールは神が自分を呼ぶ声をよく聞いていたという。敬虔なキリスト教徒であった彼女は、自分より過酷な境遇にある人々をよく助けていた。また彼女の宗教に対する関心は、キリスト教以外にも、ユダヤ教やイスラム教など幅広い範囲に及んだ。

ナイチンゲールが所有していたロザリオと聖書

家族が病に伏せその看病をしている間、彼女は自分の看護の才能を見出していた。そのすぐ後の17歳の誕生日、彼女は神の語りかける声を聞いた。「看護婦になりなさい」とその声は言ったが、当時の常識では、ナイチンゲールのように教養があり良家出身の若い女性が看護婦になるなど考えられなかった。
その仕事は、修道女がするもの、そうでなければ労働者階級が生活のために仕方なくするものとみなされていたからだ。

社会が根本から変わった産業革命の時代

ナイチンゲールの育った19世紀前半は産業革命の時代であった。鉄道が生まれ電信が生まれ写真が生まれ、数多くの新しい産業が誕生した。
街は急激に成長し、人々が仕事を求め都市に押し寄せたが、社会のシステムはそれを支えられるほど発展しておらず、多くの問題を抱えた。

街に下水道が整備され綺麗な水が供給されるようになるまでは伝染病が流行り、多くの人が命を落とした。子どもの2/5が、5歳になるまで生きていられなかった。

当時の子供たちの様子はこちらから。

当時の病院は病気を治すところではなかった

ナイチンゲールが子どもであった時代の病院は、病気を治すところではなく、貧しい病人が臨終を迎える場所であった。ベッドは汚く、病棟は混み合い、まともな看護は受けられなかった。看護婦は酔っ払いが多いという噂も流れていた。

医者や看護婦にお金を払えるほど余裕のある人は、家で治療を受けていたという。

「衛生」の重要性すらこの頃は認識されていなかった。外科手術を受けた人の半分が血液汚染により死亡した。多くの女性にとって、出産時の死はよくあることとして覚悟しなければいけないことだった。

看護婦になることを大反対される

当然、ナイチンゲールの「看護婦になりたい」という願いが家族に聞き入れられることはなかった。病院での数ヶ月の研修に参加することさえ許してはもらえなかった。裕福な家庭と紳士淑女の社会に閉じ込められたナイチンゲールは、日記で当時の状況を「非道」と表現している。

何度かプロポーズも受けたが、彼女は断り続けた(そして生涯独身を貫いた)。結婚も拒否し、看護の道に固執する娘を見て、両親は怒り絶望した。

家族との軋轢でうつ状態にもなったナイチンゲールだったが、ついにドイツで看護の基礎を学ぶ機会を手に入れたのだった。彼女にとってこれまでにない喜びだった。「人生を愛することがどういうことかわかった」とこの時の喜びを表現している。

イギリスに帰国してからは母親も最終的に彼女を認め、父親からは金銭的援助も受けることができた。そうしてナイチンゲールはロンドン内の看護施設で仕事を得たのである(この施設があった通りは現在高級医療施設が並ぶ場所となっている)。

ペットのフクロウ「アテナイ」

ナイチンゲールがギリシャのアテネで保護し、古代ギリシャの女神の名(そしてアテネの街名の由来でもある)をつけてペットとして可愛がっていたフクロウ。常に肩に乗ったり、ポケットに入っていたそうだ。だが彼女がクリミア戦争の戦地に向かう途中に死んでしまったという。

クリミア戦争の野戦病院に赴く

クリミア戦争の間、トルコのスクタリという場所にイギリス陸軍のための病院があった。内情はひどいもので、現場は大量の負傷兵に対応できず、兵士たちは無視されて死んでいった。

1854年、戦時大臣はナイチンゲールに現地でのサポートを要請し、彼女ももともと志願していたことから、38人の看護婦たちと共にトルコに向かったのだった。

当時実際にナイチンゲールが使っていた薬箱。鎮痛剤、腹痛や下痢用の薬、マラリアの薬、咳止めなど、さまざまな薬が入っていた。

病院の仕組みの立て直しをはかる

院内の悲惨な現状を見て、ナイチンゲールは組織だった運営の必要性を実感した。昼夜もなく働き、看護婦と兵士の妻たちを取り仕切りシャツやシーツを洗わせ、また男性陣にはトイレの中身を空にさせた(これすらできていなかったということだ)。

戦時大臣に必要な物資を要請する手紙を書き、自費も投入した。またタイムズ紙上で集められた基金も届けられた。これらの資金は、ブラシや毛布、治療台などの購入に当てられた。

毎晩、彼女はランプを持ちながら、負傷者が寝ている病室を見て回った。その姿は「ランプの貴婦人」と呼ばれ、多くの兵士たちが彼女を慕った。

これが、ナイチンゲールが使っていたランプだと言われている。これは実際にはトルコのランプで、蛇腹様の作りになっている。

彼女の働きは、看護の域を超えたものであった。読書室を整備し、ノンアルコールの飲み物を出すようにした。患者はアルコールに溺れる代わりに、本を読む機会を得た。

また送金システムも整えられた。兵士たちはギャンブルやアルコールにお金を使う代わりに、家族のもとに送金もできるようになった。ナイチンゲールは患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上にも目を向けたのである。

メディアはこぞって彼女を取り上げ、その名声は世界に及んだ。彼女は戦場のヒーローとなり、広告塔となり、有名人となった。

ただ、最初からナイチンゲールの活動が現場で受け入れられたわけではなかった。軍医の多くは、最初は彼女たちと一緒に仕事をすることを拒んだ。しかし徐々に医師たちの尊敬をも集め、ナイチンゲールはなくてはならない存在になっていったのだった。

看護婦の教育

ナイチンゲールと共に病院に派遣された看護婦は、38人のうち14人がプロテスタント派の修道女、10人がカトリック派の修道女で、14人が仕事として看護婦をしている女性であった。

ナイチンゲールは看護婦も病院での就労経験が必要だと考えていた。そして彼女らをまとめるためには軍隊のような規律が求められるとし、以下のような決まり事を作った。

  • 男性医師や兵士を誘惑しない
  • 規則に従うこと
  • 酔わないこと

こうしたやり方には多くの看護婦が反発し、ナイチンゲールはトライアンドエラーを繰り返しながら、人をまとめる術を学んでいった。

ナイチンゲールが看護婦たちの給与の詳細などを記録していたノート。良い行動をとっていた人はボーナスがもらえたという。

戦後、帰国してからの活動

1856年、ナイチンゲールはイギリスに帰国した。赴任中にかかった病により、痩せて弱々しくなり、ベッドに伏せることも多かった(現在ではこれは感染症のブルセラ症だったと言われている)が、病院の状況を改善するべく、精力的に仕事を続けた。

公衆の面前に姿を出すことは少なくなったが、自身の評判をうまく使い、ヴィクトリア女王の信頼も勝ち取り、病院の体制改革を行うことになったのだ。

統計学を活用した先駆者

ナイチンゲールは、病院の状況に関する統計を集め、分析し、報告書を作成して政治家や医療の専門家に説明を行った。そのうち、清潔、衛生的な環境を保つことこそが病院での患者の死亡率を下げることにつながることも発見した。
これは保健制度から陸軍まで体制を見直す大きなきっかけとなった。彼女はその後も事あるごとに、治療そのものよりも衛生を保つほうが重要だと強調している。

数年後にイギリス王立統計学会の初の女性会員にも抜擢された彼女は、イギリスでは統計学のパイオニアとみなされている。

病院設計を勉強して病院建築も手掛ける

イギリスと欧州の他の国で病院設計を学んだナイチンゲールは、画期的な病棟設計を生み出した。
より効率的な治療を行うための施設として回廊でつながった独立した翼を持つ「パビリオン・スタイル」と呼ばれる設計を生み出し、世界中の病院がこの様式を基にして建てられた。

この博物館があるセント・トーマス病院もこの様式を採用しており、現在でも南病棟にそれが残っている。

ナイチンゲール看護学校創設

1860年、戦時中から積み立てられた基金を利用し、初の看護婦養成専門学校として、セント・トーマス病院内にナイチンゲール看護学校が作られた。ナイチンゲールは看護婦が専門教育を受けることを重要視しており、運営に深く携わりながらここで積極的に看護婦の教育改革を推し進めた。

解剖のスケッチ 1915年 

看護学校で学んでいた生徒のスケッチ。彼女たちは基礎解剖学も学んでいた。

1896年に撮影された、看護学校の生徒の写真。学校には国内外から生徒が学びに来ていたという。

この看護学校を皮切りに、イギリス内では多くの看護婦養成学校が作られ、現在に近い教育体制が築かれるようになった。

ここで、看護婦はただの「賃金を得る仕事」から「知識を有する専門的な職業」となっていったのだ。

看護の手引は世界的ベストセラーとなり邦訳も出版

ナイチンゲールは生涯を通じて精力的に執筆活動を行った。ベッドに伏せている時でも、筆を動かしていたという。

200冊を超える著書を出し、その他パンフレットや記事、1万4000通を超える手紙を書いた。看護のことだけでなく、哲学、宗教、衛生、病院、統計、インドなどについても執筆した。

特に1860年に出版した「 Notes On Nursing(看護覚え書)」は世界的ベストセラーとなり、多国語に翻訳された。

左側に展示されているのは日本語訳版。

看護教育の古典としての地位を確立したこの本には、患者の病状を注意深く観察することの重要性、衛生、温度、新鮮な空気、光、正しい食生活の大切さについて書かれている。

その他、ナイチンゲールの生涯を漫画で紹介する日本の本もスペースを割いて展示されていたのが興味深かった。

近代医療が発展した背景には、多くの研究者や科学者や医者たちがいる。ナイチンゲールも、その発展に大いに貢献した一人として歴史に名を刻んだ。

彼女の説いた看護が、衛生観が、他のさまざまな分野の研究や発見の成果と融合し、こんにちの医療を形作っていると言えよう。


ナイチンゲール博物館

住所:2 Lambeth Palace Rd, Lambeth, London SE1 7EW

入場料:大人8ポンド、子ども4ポンド