ロンドンのテムズ川の南岸、ロンドン・ブリッジやバラマーケットがあるエリアの近くには、1144年から1780年まで使用された刑務所があった。イングランド最古にして最も悪名高い刑務所の1つ、「Clink Prison(クリンク・プリズン)」だ。
現在、その跡地に刑務所博物館がオープンしている。現在とはかなり異なる当時の刑務所のシステム、囚人たちの生活、罪状、拷問などについて知ることができる。ここでは、展示品の画像とともにその歴史と当時の様子を紹介していく。
※注意:あまりにグロテスクなものは外していますが、人によっては気味が悪いと感じる展示品や模型の写真があります。閲覧は自己責任でお願いします。
ここが入口。横にあるチケットカウンターでは、人がいない場合鐘を引っ張って鳴らしてスタッフを呼ぶ。チケットを購入し、自動で開く扉の中に入っていくと……なんともじめじめとした暗い刑務所内を再現した空間が現れる。
キリスト教司祭の宮殿内にあった刑務所
当時この地域はすでに、低所得者層が住み、喧騒にまみれ、盗人や悪人がはびこるエリアとして悪名高かった。法律はあったものの、うまく機能しない無法地帯であった。
この宮殿の壁の一部は今でもこの博物館の近くに残っており、当時のバラ窓(バラのようなデザインの円形窓)を眺めることができる。
この宮殿を取り囲む一帯の治安を取り締まるのは司教の責任であった。彼が法律であり、誰もが彼の決定に従わなければならなかった。
この地域は、古代ローマの時代から娼館地区として有名で、多くの人々が、時には王族まで利用していたと見られる。これが、この地域の司教に大きな富をもたらしてきたのである。
劣悪な環境での刑務所内の生活
14世紀頃の刑務所内の環境は、今からは考えられないほどひどかった。狭いスペースに囚人が詰め込まれ、悪臭が立ち込め、日光は当たらず、食べ物も満足になかった。トイレすらなかったため、部屋の隅で用を足さなければならなかったという。
衛生観念というものはここには存在しなかった。テムズ川にごく近かったため、川のかさが増すと、刑務所内は人の腰の高さまで浸水した。結果、下水道のゴミやネズミも流れ込むことになる。腸チフス、マラリア、赤痢などにかかる可能性は高かった。
また、囚人生活の快適さは、個人の懐具合によってかなり異なった。ここでは、必要なものの多くにお金を払わなければならなかったからだ。
囚人が自腹で払うものには、以下のようなものがある。
- 刑務所入所・出所費(入所や出所の際にも料金を徴収する)
- 部屋代
- ベッド代
- キャンドル代
- 燃料代(薪など)
- 水代(綺麗な水ではない)
- ビール代(外の2倍)
……などである。これ以外にもある。
誰が刑務所を管理していたのか?
司教に雇われた刑務所の看守はいた。この仕事は低賃金だったが、取り分を増やす方法はいくらでもあった。
司教が提供するわずかな資金や、時折受ける寄付によって刑務所運営は賄われていたが、看守がそのほとんど、またはすべてを自分のものにしてしまうため、囚人の食事やその他の必要な日用品が十分に行き渡ることはなかった。
囚人らは、外部からの客―家族や友人が食べ物を持ってきてくれるのを待つしかなかった。それが叶っても、他の囚人や看守らがそれを狙っていた。
当時は教会が「貧しい者に施しを与えると天国に行く可能性が高まる」と民衆に教えていたため、囚人に食べ物を分け与える人も少なくなかったと思われる。
ちなみに、イギリスの刑務所に食事処が導入されるのはずっと後の19世紀のことだ。
食べ物を持ってきてくれる者が誰もいない囚人は、窓から食べ物を乞うか、鎖に繋がれたまま道路で物乞いをしなければならなかった。
また、看守は囚人が食べ物や飲み物を受け取るのを許可する代わりに、料金の支払いまたは看守にも一部分け与えることを要求した。
中には、かなり奇妙な方法で食物を手に入れている者もいた。
ラットマン
1670年に借金を理由に投獄されたヘンリー・ブランカーという男。外から訪ねてくれる人など誰もいない孤独な男性だったというが、新しい入所者たちにはアドバイスをしたり、鍵をきちんと閉めない看守を叱りつけたりし、自身を「クリンクの父」だと考えるようになった。
彼は「Rat man(ラットマン)」と呼ばれていたが、それは彼が野良ネズミを家畜として飼っていたからだった。
ネズミは布の切れ端や羊皮紙などを食べるのでそれらを与え太らせ、その後ネズミを食べて飢えを凌いでいたのだ。彼を再現したこの人形の手元には、ネズミ(もちろん偽物)の入ったカゴが置かれている。
刑務所内では、オレンジの汁を「目に見えないインク」として用い、手紙で隠れた伝達を行っていた。オレンジの汁は乾くと消え、炙ると再び出てくる性質がある。
この発明は、1594年にこの刑務所に投獄された神父が発明した。なぜ神父が刑務所に入れられていたのだろうか?
これには、当時のイングランドにおける宗教改革が関係している。
どんな人々が「罪人」とされたのか?
これは、1550〜1650年当時の刑務所の壁が残っている箇所。
殺人や盗みなどの犯罪はもちろん、借金で首が回らなくなった者も投獄された。また、この時代は信仰の違いから刑務所に入れられた人も数多くいた。
1500年代初期から、イングランドにはカトリックの教義と対立するプロテスタント派が現れ始めていた。そして時の王ヘンリー8世(在位:1509~1547年)は、カトリックを抜け、新たにイングランド国教会を立ち上げた。
そのため、カトリック教徒は厳しく弾圧された。その結果、16〜17世紀のクリンク・プリズンはそうした「異教徒」たちでいっぱいになった。オレンジインクを発明した神父ジョン・ジェラルドも、カトリック派に残り続けたため投獄されていたのだった。
また、宗教問題を背景に君主や王族の命を狙う「国家反逆罪」を冒した者も投獄されていた。
「異端の書物」を燃やす「焚書」も次々と行われた。その対象はカトリックだけでなく、イングランド国教会以外のプロテスタントやその他の宗教にも及んだ。イングランド国教会から離脱した「分離派」のグループを結成したジョン・グリーンウッドという男性もクリンク・プリズンで1年間過ごした。
彼はその後同グループのリーダーとなり、「ピルグリム・ファーザーズ」として新天地を求め、メイフラワー号という船で北米大陸に移住したのである。
刑務所内で極秘にミサを開いた神父たち
刑務所の外と同じように、刑務所内の囚人にとってもキリスト教のミサは生活の中心であった。
刑務所内では、密かにカトリックのミサが行われることがあった。カトリック派のウィリアム・ウェストン神父(↑)は、フランスからイングランドに信者の救済のためにやってきた。
彼は悪魔祓いもしており、その行為がプロテスタント信者をカトリックに改宗させるためのものだとみなされ、1586年に捕まってクリンクに投獄された。
獄中でも、彼はミサを行い、囚人らの懺悔を聞き、時にはカトリックではない囚人を改宗させることさえあった。彼は自伝の中で「さまざまな面において、クリンク・プリズンはカトリックにとって便利な集会場所だった」と振り返っている。
外では公にカトリックの布教ができないため、監視の目を盗んで儀式を行うには刑務所は格好の場だったのだろう。獄中の神父らは、看守に賄賂を渡して自分たちの儀式を見て見ぬふりをしてもらうこともあったという。
二重スパイの神父も暗躍した
宗教の争いの中には、スパイたちの姿もあった。カトリックだと偽り、わざと逮捕されクリンク・プリズンに投獄されたものもいたという(おそらく刑務所内でのカトリックの動向を探るため?)。
中でも有名なのが、カトリックとプロテスタントの二重スパイとして知られたアンソニー・ティレルという神父で、60年間に2つの宗派の間で6度も改宗した。クリンク・プリズンに投獄されてからは、囚人からの懺悔や話を聞いて回り、得た情報を政府に報告していたという。
刑務所内で執行された多様な拷問
刑務所内ではしばしば拷問が行われた。その対象は、ほとんどがカトリックの者(またはカトリックだと疑われた者)、大陸のカトリック教会に内通している者であった。
こうした拷問の許可は国王や女王が出しており、それがないと執行できないことになっていた。
両端に爪のついたフォークを首輪につけたもので、囚人の首に巻く。一方の爪は顎下に、もう一方は胸元に突き立てられる形になる。囚人は立ち姿勢で縛り付けられ、前かがみになったりはっきり話そうとしたりするとフォークが刺さり激痛が伴う。
貞操帯は、性行為をしないように位の高い人物の娘や妻の下半身に着用させたという道具。騎士たちは十字軍遠征の際、妻にこれを着せて出征したという逸話もあるが、実は十字軍が興った時には貞操帯はまだ発明されていなかったようで、真偽のほどは定かではない。
ブーツは、足を入れた後の隙間に木材を敷き詰め、中を濡らす。木材が水を吸って膨張する。より苦痛を与えるためにくさびが木材に打ち込まれたり、ブーツを火にかけることもあった。この拷問を受けたほとんどの囚人が足を失ったり障害を追った。
最もシンプルな方法。囚人に手錠をはめて長時間、または数日吊り上げ、水や食物を与えずに、引っ張る強さを増していくというもの。
この方法は、体にひどい跡が残るものではなかったので法律では拷問だと認められておらず、王族の許可がなくても執行できたという恐ろしいものであった。
両手両足を台にくくりつけ引っ張る拷問。引っ張る強さはゆっくりと強められ、痛みが増していく。ロンドン塔にも大きな拷問台があり、王家の命令の下のみ使用された。
板に空いた穴に囚人の足や手を入れさせ、さまざまな種類の拷問を受ける。バラマーケットで悪質な商売をした商人たちがよくこの方法で罰を受けたという。
固くなったパンやおがぐずを混ぜたパンを売ったパン屋は首からパンをぶらさげられ、腐った肉を売った肉屋は、その肉を鼻の下で燃やされた。酸っぱくなったワインを売ったワイン屋は、それを飲まさせられ、樽の中の残りのワインは頭から浴びせられた。
目には目を、のような罰だが、他の拷問に比べれば随分マシに見える。
死刑執行法
この刑務所で最も一般的な死刑執行法は首吊りだった。公衆の面前での首吊りは1868年に廃止され、またイギリスでの首吊り刑は1964年を最後になくなった。
斬首は一般的に貴族や王族に執行された方法であった。通常、斧一振りで首を切断するため、即死となり苦痛が一番少ないとされる方法だが、新人の執行人の場合は何度か斧を振り下ろさなければならない時も合ったという。
また、ヘンリー8世治世下の1532年に導入された死刑執行法に、茹で釜があった。他人を毒殺した者がこの方法で処刑されたという。長時間に渡って皮膚や肉、骨を煮られながら死んでいくというおぞましいもの。こんなのが物語の中だけでなく本当にあったとは……。
街中に吊るされた死体
ロンドンでは、他者への見せしめによく犯罪者の死体が吊るされていたという。絞首台、交差点、背の高い木などにだ。特にロンドン・ブリッジには死体がよく吊るされていたという。この風習は1832年まで続いた。
当時のこの地域の街並みは、控えめに見ても地獄絵図だったのではないだろうか。
また、中世から18世紀まで、テムズ川にはよく海賊が出現した。そのため、海賊処刑用の港があり、絞首台が設置されていた。有名な海賊の船長であるキャプテン・キッドも、1701年にそこで処刑された。
クリンク・プリズンの終焉
1700年代前半から、維持コストの関係でメジャーだった拷問器具は使われなくなっていった。刑務所の機能は徐々に衰退し、1732年にはたった二人の囚人しかいなくなった。
1745年には、元の刑務所は朽ち果てていたため、近い他の場所に仮の建物をあつらえ、そこを刑務所として使用した。この頃には、また借金を負った人々が入れられる場所として機能し始めていたようだ。
1780年、プロテスタント派の人々によって結成されたアンチ・カトリックのグループがロンドン内で大規模な暴動を起こした。それにより刑務所も燃やされ、その後再建されることはなかった。この時に収容者の多くは逃げ出し、そのうち再び捕まったものはいなかったという。
住所:1 Clink St, London SE1 9DG
料金:大人7.5ポンド、子ども5.5ポンド(オンラインでも購入可能、手数料が0.5ポンドかかる)
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