コロナ流行下で営業を再開した、ロンドン中心部のサー・ジョン・ソーンズ美術館に行ってきた。イギリスの著名な建築家兼、美術品のコレクターであったジョン・ソーンの邸宅を博物館として公開しているもので、ロンドンの中でも「風変わりな美術館」として有名である。
以前は撮影禁止だったのだが現在はOKになっていたので、現地で撮った写真も含めて、この美術館について紹介しよう。
さまざまな建築を手がけたジョン・ソーン
サー・ジョン・ソーン(1753~1837年)はイギリスの建築家で、イングランド銀行やピクチャー・ダリッジ・ギャラリーの建築、ウエストミンスター宮殿の改築などを手がけた。フリーメイソンの会員であり、ロンドンにあるフリーメイソン・ホールの増築も行ったという。
またロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの教授も務めるなど、多くの業績を上げた。1831年にナイトの称号を受けたため、名前の前にサーをつけて呼ばれる。
展示物も含めた空間全体を芸術作品として提示
現在は美術館として一般公開されているこの自邸も、ソーンの設計によるもの。古代の彫刻や建築部品、絵画を収集していたソーンは、この邸宅内に自分の好きなようにコレクションを散りばめた。
時代も国もジャンルも関係なく、自分の趣味にのっとって品物を配置した空間は、体系だって美術品や考古学的な品物を見せる一般の美術館とは毛色が違うものだ。
ソーンは、建築と装飾、内部のコレクション展示を併せてこの空間を総合的な芸術として表そうとしたと言われる。
この美術館には、作品を説明するキャプションもほとんどない。詳細を知りたい人には少し物足りないかもしれないが、その分キャプションを読む行為で作品鑑賞が途切れることなく没頭できる。
鑑賞者は、混沌とした雰囲気の中で各部屋を通り抜けながら、その奇々怪々とも言える空間に埋没していくこととなる(ここは、本当に「埋没」としか言いようがないのだ。この後の写真を見てもらえばわかる)。
スタッフは各所にいるので、気になることを聞けばきちんと解説してくれる。
最初の部屋にあった、おそらくマザーオブパールで装飾が施された上品な椅子一式。着席防止に植物の実を置いているのもおしゃれ。
と思えば、同じ部屋のミラーの前にはグロテスク(醜い人面像)の壺。
小さな中庭が覗く窓際。中央は古代ギリシャ・ローマ時代の壺が展示されているが、左右端は中国の骨董品がペアで置かれる。この秩序のなさが素敵。
中央の壺の下には、カラフルな石を嵌め込んで作った色鮮やかなタイルが敷かれている。これも違う時代のものを古代の壺に組み合わせたのだろう。
光をたっぷりと取り入れる設計の天窓が各部屋に
中央の球体とテーブルは、この時ここで展示を行っていたコンテンポラリー作家のもの。それ以外は、ソーンが暮らしていた時から変わっていない状態という。こんな空間で朝食をとるなんて、そわそわしてしまいそうだ。
天井には天窓と、光を反射するように周りに鏡が多数設置されている、とても変わった設計。どの部屋も、スタイルは異なるがこのように採光を重視した作りになっているのも、この邸宅の特徴だ。
所狭しとアーティファクトが飾られた空間
ブレックファースト・ルームから狭く短い通路を通る。通路もこのように、数々の浮彫がひしめく。ただでさえ小さな空間なので、まるで空間恐怖症のような印象すら覚える。あらゆる隙間を、芸術品で埋め尽くそうとしているかのような。
隙間なく彫像が展示された床には穴が開いていて、地下階の様子が見える。薄暗くて怪しげ。ルートの後半で地下階も見られるのでお楽しみに。
狭くて小さい通路を抜けると、吹き抜けの空間に出る。
ここはご覧の通り、数多くの骨董品やパネルや彫像がひしめき合う圧巻のスペース。この脇の細い通路を歩くのだが、かなり気をつけないとどれかしらの展示品に触れてしまいそう。それくらい見学者と展示品の距離が近いのだ。
巨大なアポロ像を後ろから見たところ。まったく同じ形状の古代ローマ時代のアポロ像がバチカン美術館にあり、これはそのコピーだと思われる。
この吹き抜け中央から地下階を見ると、巨大な棺が見えた。あとで下に降りた時に、これが何なのかわかって驚くことになる。
ルートを進みながら、周囲のさまざまな展示品を見ていく。
豊穣の象徴として表される羊の角のモチーフであるコルヌコピア。角の付け根から、果物や野菜があふれるような形をしている。
不思議な女性像。調べてみると、ギリシャ神話のアルテミスという女神であるという。狩猟、貞潔の神であるというが、現在のトルコ西部にあったエフェソスと言う古代都市では(貞潔とは逆?に)多産の女神であり、このような一見変わった見た目で表された。つまりこれはエフェソスバージョンのアルテミス像である(ギリシャ美術では普通の姿をしている)。
胸部に多数ついている円形のものは豊穣を意味する乳房であるとか、卵であるとか、女王蜂に群がる蜜蜂であるとか、複数の説があるようだ。
脚の部分にはウサギや牛、鹿、グリフォンなどの生き物たちが彫られている。
その後ろの方には、口をぽかっと開けた人面。口から水を吹き出す水場の装飾彫刻だったのかもしれない。
平和に眠るブロンズの少女。どこに目を向けても何かしらが視界に飛び込んでくる。情報量が多い。
ソーンは、何度も建物内の展示を変え、陳列する物や順番を入れ替えていたという。訪問したゲストはこのインテリアにさぞかし驚嘆したことだろう。
絵画展示室。正面がドアになっているのがわかるだろうか。これは実際に開閉でき、通常時は1時間に1回扉を開けてその奥にある絵画コレクションを見ることができる。
だが今回はコロナの影響で、扉の開閉は中止されていた。
この部屋には、大判のウィリアム・ホガースの作品が何枚も飾られている。他にも、ソーンはターナーやトーマス・ローレンスなどイギリスの人気画家の作品を所有していた。
さらにルートに沿って、地下階に降りる。全体的に薄暗いので、怪しげな雰囲気が漂う。
地下に眠る墓碑や棺……古代エジプトのファラオの棺まで
地下には、さらに濃密な空間が広がっていた。
亡くなったソーンの妻に寄せた記念碑や、また幼くして亡くなった息子のメモリアルパネル。ここは本当に、彼のプライベートな邸宅だったのだ、と実感する。今はこうして世界中から多くの人が訪れているこの建物は、彼が家族と共に過ごし、そして家族の死も悼んだ場所だったのだ。
先ほど上から見えた棺。実はこれ、紀元前1370年頃の古代エジプトのファラオであるセティ1世の棺だという。中の本体(ミイラ)は、カイロにあるエジプト考古学博物館に保管されている。
1817年にイタリアの冒険家が発見し、最初は大英博物館に売ろうとしたらしいが、博物館は支払いを拒否。そこでソーンが手に入れるために動いたというわけだ。この棺は彼のコレクションの中でも最も高価なものだという。
この棺はひと塊の石灰岩から彫り出したもので、外側、内側両方に葬祭文書「門の書」の内容が浮彫で彫られている。死者を死後の世界に導くガイドのような役割を果たすものだ。
元は白地に薄い青緑色の顔料でヒエログリフが着彩されていたが、イギリスの気候のせいで黄色く変色してしまった。
その奥には、小さな骨壺がいくつも並ぶ棚がある。古代ローマ時代のもので、当時は火葬が主流であったので、焼いた後の骨をこうした入れ物にいれていたという。
画像左上に男性の横顔が2つ彫られている。壺に入っている死者の顔なのかと思いきや、これは当時見世物で人気だった役者やキャラクターであったらしく、故人とは関係ないという。
こちらも神殿型の骨壺。三角形の部分が蓋になっている。
この部屋を通り過ぎてから見つけた、シーサーのような狛犬のような生き物。古代エジプトから古代ローマ、そしていきなり東アジアに引っ張られた。ここでは時代や地域を超越した鑑賞体験ができる。
中まで入れなかったのが残念だが、ここはソーンの妄想想像力が最も爆発している部屋である。ソーンのスタイルは新古典主義様式で、この邸宅もその様式がとられているが、この部屋だけ中世のゴシック風なのだ。
中世のグロテスク頭部(写真中央の壁にかかっている複数の頭部)や東洋風の壺などが並び、右側の卓のあるスペースの天井には恐ろし気なガーゴイルが彫られている。
なぜならこれは、ソーンが作り上げた架空の中世の修道士「ジョヴァンニ神父」の住んでいる部屋、という設定であるから。中世の修道士が地下に潜んでいるとは、やや不気味な感じのする物語でもある。
窓から見える中庭にあるこの柱は、まさにソーンの好奇心と趣味をそのまま体現したものになっている。多様なルーツを持つ柱の一部や柱頭を積み上げて作ったもので、素材も大理石、石膏、石などさまざまである。
一番下は、前述したアポロ像の台座(アポロの持ち物である竪琴が彫られている)で、あとはヒンドゥー寺院から持ってきた柱頭や、ゴシック様式の柱頭、モロッコの柱などが組み合わせられている。
地下階の見学後は、先ほど降りてきたのとは別の階段から上へ。映画に出てきそうな雰囲気。
最後の展示室では、絵画コレクションの一部と、ソーンの建築デザイン画を見ることができた。
最後に通るのはミュージアムショップ。ジュエリーや画集、ソーンのコレクションの多くを占める古代ギリシャ・ローマに関連したグッズなどを販売している。
*
展示品があまりに多いので、1回ですべて見るのはほぼ不可能だと思うが、とにかくこの空間に身を置いてみるのをおすすめする。
この美術館で一番の見所は、アポロ像のある吹き抜けの空間と、地下階のエジプト棺だろう。とはいえ、人によって目につくところは異なるはずで、注意深く見学していたら目立たない場所にとても気になるものが見つかるかもしれない。この建物内を歩く時は、宝探しをしているような気分になれる。
ロンドン観光では、有名ミュージアムの陰に隠れがちなこの美術館もぜひお忘れなく。
住所:13 Lincoln’s Inn Fields, Holborn, London WC2A 3BP
入場無料
コメント