大英博物館タントラ展(前)美術品で見る、めくるめくタントラの世界

大英博物館
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大英博物館で始まった、タントラについて紹介する特別展「Tantra enlightenment to revolution」(~2021年1月24日まで)に行ってきた。

このレポートでは、展示されていた美術品をもとに「タントラとは何ぞや」ということを解説していきたい。

性行為の修行にまつわる美術品や人骨を使用した儀式道具などもこの展示では見ることができたが、人によってはあまり耐性がないトピックなので、それは後編で独立した記事として紹介する。

ここでは、タントラの教えや古代から現代までの歩みを、歴史的な遺物と共に見ていこう。門外漢の私にとっては正直なかなか理解がしにくい箇所もあったが、展示室内のキャプション解説をベースにしながら、なるべくわかりやすく言葉にしていきたいと思う。

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タントラとは

タントラとは、インドで500年頃に興った、タントラと呼ばれる文献を基にした哲学のこと。ヒンドゥー教と仏教、どちらにもまたがる教えである。

シヴァ神(左)と女神バイラヴィ(右、シヴァ神の妃パールヴァティの別名) 1630~1635年 インド

タントラは、ヒンドゥー教の破壊と再生の神であるシヴァ、そしてすべてに通じるエネルギーであるシャクティ(シヴァ神の妃パールヴァティも同一である)を信仰する人々の一部で生まれたとされる。そして700年頃までには、インドのヒンドゥー教、仏教それぞれの寺院でタントラが学ばれるようになり、双方の宗教の交流を反映するようになっていった。

つまり、ヒンドゥー教信仰の中から興り、また仏教にも混ざった哲学である。そのため、タントラの内容や修行法はヒンドゥー教の影響が大きい。仏教では密教という名で広まっている。

自身を宇宙(神)と同一化させ、悟りの境地に達するのがタントラ修行者の主な目的であるとされる。

タントラ文献の多くは神や女神の対話形式で記述され、神々の姿や、ヨガを含むさまざまな儀式の実践方法を伝えるものであった。

マントラ 1300~1500年 ネパール

タントラ文献には、サンスクリット語で神々の性質を表したマントラ(日本語訳は真言)という音を表す表記が含まれていることが多い。

タントラでは、物質的な世界は女性の神的な力で満たされていると説いた。この神的な力を体と精神を通じてチャネリングすることで、より早く悟りを開けるということだ。

時輪タントラ(カーラチャクラ・タントラ) 1000~1100年 ネパール

体のすべての面は悟りにつながっており、人体は神聖な道具に転じることができるとされた。このタントラ文献の着彩画では、女性が体を使って力の源となる女神を表現する「ヨガの体」が描かれている。

マハーカーラ(バイラヴァ) 1000~1200年 インド

タントラの物語はシヴァ神の記述から始まるが、そのシヴァ神のタントラのおける化身のひとつがこのマハーカーラ(日本では大黒天)である。4本ある手には剣や頭蓋骨の杯を持っている。

この頭蓋骨は、彼を侮辱したヒンドゥー教の創造神ブラフマーの首をはね、その頭を杯にしたとされている。この話は、ヒンドゥー教とタントラの間の緊張した関係を示すものでもある。

初期タントラの修行者は、このいで立ちを真似て頭蓋骨の杯を持っていたとされる。この展示でも実際に頭蓋骨でできた杯を見ることができたので、後編の記事でお見せしよう。

カースト制度を持つインドで、身分で差をつけなかったタントラ

Karaikkal Ammaiyar 1250~1279年 インド

聖女Karaikkal Ammaiyarの彫像。彼女は妻という立場を捨てシヴァの信者となり、神に自身の美しい容姿を醜い者に変えてくれと願ったという。社会的役割を捨て、彼女は悟りを得た。

当時、インドでは女性は妻や母としての役割は求められたが、個人としての社会的地位は低く、自身の望みを成就することは叶わなかった。その点で、妻という立場を放棄し悟りを得られた彼女は特別な存在なのだ。

タントラはさまざまな社会的背景の人々に開かれており、たとえ社会から見捨てられた立場の人であっても入会が可能だった。インドには、ヒンドゥー教の価値観をベースとした厳格な身分制度であるカーストが存在し、人の社会的地位、職業、婚姻相手など多くのことがその出自で決められる。

カーストの一番上はバラモンという、祭祀を司る最も徳の高い人々であった。信仰におけるランクまでも、出自によって決められていたのだ。

こうした背景から、身分に関係なく悟りを開けるタントラは徐々に人気を集めていった。つまり、アンチ・カーストの最初期の動きと言えよう。

古代タントラの神々

7人のMatrika(母)像 900~1000年 インド

守護神であり卓越した叡智を守る存在でもあるMatrikaという7人の女神たちと、シヴァ神(一番左)の群像。彼らは悪魔を倒し、その血をすすって酔い踊っているところである。右から3番目にいる、頭がイノシシの神はヴァラヒという神である。

ヴァラヒ像 800~900年 インド

伝染病を起こし、また予防もするという女神ヴァラヒ。この浮彫では牛の上に座って子どもを抱いており、口には魚をくわえている。

ヒンドゥー教系統のタントラ文献では、魚は儀式に使われる5つの要素のうちのひとつとして記されている。他の4つは、酒、肉、炒った穀物、性行為とされる。

チャームンダー像 1000~1100年 インド

こちらはMatrikaのリーダーで、骸骨のような恐ろしい様相で憤怒を表している。敵と戦ったドゥルガーという女神の戦闘の怒りを表す存在として、彼女の額から生まれたという。

3本の手にはそれぞれ、蛇(右上)、頭蓋骨の杯(左上)、短剣(中央下)を持っている。

このチャームンダーは、悪魔だけでなく人間のエゴを壊す存在として表されることもある。

多様なタントラの修行

チャクラと聖なる道具としての人体

すでに上で「タントラでは人体は神聖な道具に転じることができるとされた」と述べたが、タントラ修行のうち特に人気となったのが、自身の体を聖なる道具として使う「ハタ・ヨガ」だ。

チャクラのあるヨギ(ヨガ修行者) 1800年代初期 インド

この作品のタイトルのヨギとは男性ヨガ修行者のこと、チャクラとは体に複数あるエネルギーの中心点のことである。

ちなみに、ヨガ自体は、ヒンドゥー教/タントラだけでなく、インドのさまざまな宗教で取り入れられた修行だという。

この絵では、女神クンダリーニがヨギのチャクラを通じて上に昇ろうとしており、ヨギは無上の喜びを感じている。クンダリーニがチャクラに住まうそれぞれの神と交信し、ヨギを精神的な高みに連れて行ってくれるのだという。額のチャクラには、純粋意識を体現するシヴァ神がいる。

チャクラと上昇するクンダリーニ 1800~1820年 インド

チャクラとその他タントラに重要なシンボルが14個描かれた大変長い掛け軸。おそらく上流階級の修行者のマニュアルとして作成されたとされる。

チャクラは黄金のチャネル(流れ)でつながっており、それがヨガ修行者を現在の地上から離れた自己神格化、宇宙との同一化に導くという。

部分拡大。一番上は、ヨギの体を流れる3つの流れが交錯する眉間を表す。

下の2つの花は、上の花が破壊の神シヴァの住む心臓のチャクラ、下が維持の神ヴィシュヌが住むみぞおちである。2つはつながり、お互い関わり合っている。

この図では、額のチャクラには聖なる白鳥が住んでいるそうで、「額はシヴァが住むではなかったのか(ひとつ前の解説ではそうだったのに)」と思ったが、きっと教えにもいろいろあるのだろう。

掛け軸の一番下(=人体の一番下)の部分。上のチャクラは肛門・性器周辺のもので、障害を取り除く神ガネーシャが住まう。黒い巨大な生き物は蛇の王で、宇宙の海に住む。この海は無意識の世界とつながっているという。

水銀を使った錬金術

Nath 修行者と錬金術 1750年頃 インド

Nathと呼ばれる修行者の団体は、水銀を使った錬金術を行う(不死の薬などを作っていたようだ)ことで有名であった。この絵では、馬に乗った女性が井戸から出る銀の液体を導いている。

水銀はシヴァ神の精液で、この世界のさまざまな地に落ちているものだとされていた。その精液はシヴァ神の力の源とみなされていたため、価値のあるものを作り出す錬金術に使われていたようだ。

厳しい体勢で行う苦行

10人のヨギ 1820年頃 インド

さまざまな体勢で修行をするヨギの姿が描かれる。上の左から2つ目、座ったまま浮いている修行者がいるが、これはハタ・ヨガのゴールであるという。

逆立ちをしている体勢のヨギが3人いるが、これは頭にあるとされる「不死の蜜」を体に落とさないためとされる。

麻薬の使用

バング(麻薬)を使うシヴァ 1775~1800年 インド

シヴァの神的な狂乱は麻薬から来るものだと思われていたため、ヨガ修行者の多くがシヴァを真似して大麻から作るバングという麻薬を使っていたという。

この絵では、長髪で裸のシヴァが、やや女性的な姿で中央に描かれている。妻のパールヴァティーはバングを彼の杯に注いでいる(撮影角度がうまくいかず見にくい……すみません)。

仏教と混じりアジアに広まったタントラ

600年頃、東インドはVajrayanaと呼ばれるタントラ系仏教の中心であった。この教えを広めていた寺院には、アジアのさまざまな地域から巡礼者や学者、学生が訪れた。

彼らは彫刻や文献、儀式用道具などを母国に持ち帰り、タントラを広めていった。そしてすでに東アジアで広まっていた仏教に溶け込むような形で、諸地域に広まっていったのである。

日本では、空海が唐でこの教えを学び、806年に帰国してから密教(秘密仏教)として広まった。1000~1300年代には、チベットで密教の複数の宗派がさらに発展を遂げた。

パドマサンバヴァ像 1500~1700年 チベット

密教をインドからチベットに伝達した僧パドマサンバヴァの彫像。チベット密教の開祖として知られている。手には金剛杵を持っている。

金剛鈴と金剛杵 1800~1900年 チベット

金剛杵(右)とは、先が分かれた刃を両側に持つ法具で、煩悩を滅し悟りを求める心を、タントラ神話の雷を操る武器になぞらえたものである。

金剛鈴(左)は、鈴を鳴らして出た音が消えていき静寂になる様が「空(物質的なものは一時的であり、すべては空しいことである、という教え)」を表す。

マヘーシュヴァラとしてのシヴァ 600~800年 中国

密教に取り入れられたシヴァ神の姿。日本では大自在天として知られる。3つある顔は、向かって右の男性の顔が残忍性、左の女性の顔が女性性、中央がシヴァそのものを示す。

この板絵は中国の仏教寺院から見つかったという。マヘーシュヴァラは攻撃や疫病から家の中の人々を守ると信じられていた。

大成就者の聖なる怒り 1700~1800年 チベット

大成就者(Mahasiddhas)とは、タントラで悟りを開いた者たちのことで、700年頃からインドからヒマラヤ山脈にかけてタントラを広めた。彼らの奇跡に満ちた人生譚はチベットで特に人気を博したという。

この大成就者は頭蓋骨の杯を持ち、タントラの神に自身を似せようとしている。大変色鮮やかな絵画で、その色遣いは私たちにとっては極楽浄土を思わせるような雰囲気すらある。

また額装も素晴らしく、布地に大変豪奢な文様が刺繍されている。「喜」に似た漢字のような字(この画像では右下)も随所に見られる。当時、チベットでは漢字も一部では使われていたのだろうか。

Yama Dhamaraja 1700~1800年 チベット

死の神であるヤマをモチーフにした掛け軸。ここではヤマは牛の頭を持つ姿で表され、牛の上に乗っている。その牛は、人間の死体として描かれる人間のエゴを踏みつけている。

これは修行者に、自己というものがいかに限りあるものであるかを思い出させるための表現である。修行の末に神に「成る」時、自己は取り払われるのだ。

実はこの作品、絵ではなくて全面織物である。丁寧に織り込まれた無数の糸は、ヤマの恐ろしい顔となり、剥き出した牙となり、すべてを焼き尽くす炎となる。

これが仏教では閻魔大王として私たちがよく知る地獄の王となる。その片鱗がここでも見えるのではないだろうか。また、ここでヤマがまとう布の形は、仏画の仏や日本画の風神雷神が持つ布の表現と通じるものがある。

神々の世界を図にした曼荼羅

4つの曼荼羅のタンカ 1500~1550年 チベット

タンカという、チベット仏教の仏画である掛け軸。曼荼羅とは密教における神々とその聖なる世界を図式化したもので、その内容や国によって多様な種類がある。

ディヴァータ・ヨガというヨガでは、修行者はこの曼荼羅を宮殿のような空間に見立て、その世界に入っていくのを想像する。守護神が守る東西南北4つの扉のひとつを通り、中心部の主神に会うまでその道を行く。そしてその神と自らを融合させ、曼荼羅世界の中心に自分を置くのを目標とするのだという。

こちらは右上の曼荼羅に近づいてみたもの。

中央の花のような形をした部分では、花弁型のスペースには踊るダーキニー(タントラ文献において女性修行者でありまた女神。古代インドの魔女のような存在を起源とする説がある)、中央部には男神Hevajraと女神Nairatmyaが性行為をして結合している姿が描かれる。

日本の神道とも融合したタントラ

ダーキニーつながりで、この作品も紹介したい。

仏教より先に日本に根付いていた神道もまた、空海が唐から持ち帰ったタントラの教え、つまり密教と一部融合した。

荼枳尼天 1336~1392年 日本

神道の稲荷神は、タントラのダーキニーと融合し荼枳尼天になった。

この日本の掛け軸では、荼枳尼天は稲荷を表す白狐に乗り、それを龍が運んでいる。稲荷神は豊穣の神であったことから、荼枳尼天も豊穣と結び付けられる。

西洋人の視点から見たタントラの神々

インドにヨーロッパの国々が進出し、特にイギリスの東インド会社は、初期タントラの中心地であったベンガル地方で1750年代までにインドでの勢力を増していった。

そして1858年から89年間、インドがイギリスの植民地になったことは、よく知られている通りだ。

イギリス人はキリスト教徒の観点から、インドを黒魔術(タントラ)に侵された大陸という誤ったイメージで受け止めた。特に、恐ろしい見た目の女神であるカーリーがベンガルで広く崇められていたことも、その誤解を後押ししたとされる。

シヴァ神を踏む女神カーリー 1890年代 インド

カーリーはシヴァ神の妃であるパールヴァティの凶暴な面を表す姿である。この像のカーリーは、人間の首でできたネックレスをつけ、口を血で染めて舌を出し、手には人間の首を持っている。

また彼女は創造エネルギーであるシャクティの化身ともされる。シヴァ神は彼女なしでは機能せず、2人が互いに関わり合うことで初めて世界が存在するのである。

西ベンガルの州都である現コルカタは当時カルカッタと呼ばれており、英語のスペルではKalikataと書いた。このスペルはカーリー神からとられたものである。

カーリー(インドの出版社Ravi Varma Pressの発行) 1910~1920年

青い体のカーリーが、生首を掲げ、シヴァを踏みつけ、恐ろしい形相でこちらを見ている。これは当時のインド最大の出版社が発行した絵で、インドでは大変な人気を博したそうだ。

ちなみに、カーリーがシヴァを踏みつけるポーズは「戦いに勝利し踊っていたカーリーの振動で大地が砕けそうになってしまったため、シヴァがそれを防ぐために横たわらなければならず、カーリーは勢い余って横になったシヴァを踏んでしまう」という何ともおかしな伝説から来ているものである。

この絵は発行されてからすこし後の1928年にキリスト教宣教師の間で広まり、「ひどい絵だ、私はインドに生まれてこんな神々を信じることにならなくてよかった」というコメントまで添えられた。キリスト教徒は、カーリーを堕落したインドの象徴として見ていた。

女神チンナマスタ 1880年

ベンガルの人々にとってカーリーは大変重要な神だったが、このチンナマスタという女神もまた人々に信仰された神の一柱であった。

ここでは自身の頭を切り取る自己犠牲と、吹き出す血を従者と自分の頭に飲ませる―宇宙を育む様子が表されている。彼女はシヴァと同じように、世界を破壊し、そしてまた再構成する存在なのである。

彼女は愛と欲望を表す神々の上に立っている。愛や欲望を超越しているのか、それともそれに支えられているのか。

カーリーやこのチンナマスタのような女神は、ベンガルの人々にとって、イギリスに対する抵抗、イギリスの支配からの独立の象徴になっていった。

以前大英博物館で行われた、反体制をテーマにした作品を展示する「I Object」展にも、同じ文脈でカーリーの絵が出ていた。こちらも興味があればぜひ読んでもらいたい。

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大英博物館「Tantra enlightenment to revolution」(~2021年1月24日まで)

住所:Great Russell St, Bloomsbury, London WC1B 3DG

料金:£15

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