ロンドン・ナショナル・ギャラリーで「Sin(罪)」展(~2021年1月3日まで)というキャッチ―な名前のミニ特別展が始まったので行ってきた。
大変小さなスペースの展覧会で、展示されている作品数も数えるほどだったが、美術作品を「罪」という観点から横断していくのは面白かった。絵画が多かったが、一部立体作品も展示されていた。
ちなみに英語での「sin」は犯罪のcrimeとは異なり、宗教や道徳において犯した罪のことである。
この記事では、展示されていた中でも特に個人的に好きな作品を紹介しながら読み解いていく。
ブロンツィーノ「愛の寓意」
展示室に入るとまずこの作品がどーんと出迎えてくれる。
私がナショナル・ギャラリーで一番好きな所蔵品である、ブロンツィーノの「愛の寓意」。これはさまざまな象徴に満ちていて、見所盛りだくさんの絵画なのだ。普段は常設展で見ることができる。
中央にいるのは、女神ヴィーナスとその息子であるキューピッド。この2人は愛の擬人像である。作品タイトルにも納得がいこう。
だが、ここではちょっと行き過ぎた「愛」、近親相姦ととれる表現がされている。私は、このキューピッドの、涼しげな目で彼女を見つめながらキスをする表情がぞくりときて大好きなのだが、その相手は彼の母親である。
この作品が1860年にナショナル・ギャラリーにやって来た時には、「最も不適切」という評を受けたという。当時の館長は、ヴィーナスがキューピッドの口に差し込んでいる舌や、キューピッドに摘ままれて立ち上がったヴィーナスの乳首の描き直しを行わせた(現在では、ご覧の通り元に戻っている)。
さて、この絵画の「罪」を発見したところで、他の要素を見ていこう。
一番上の部分。翼を持ち砂時計を肩に乗せた老人は「時間」、頭の後ろ半分が欠けた仮面のような顔を持つ人物は「忘却」を表す。2人とも青い布を引っ張り合っているが、これは何を意味するのか、結論は出ていない。
「忘却」は、ヴィーナスとキューピッドの行為を隠そうとし、それを「時間」が止めようとしているのか、またはその逆か。
その対角線上、画面左下に視線を移すと……
「忘却」の仮面のような顔に呼応するように、本物の仮面がヴィーナスの足元に2つ転がっている。何かを隠そうとしている暗示だろうか。
ヴィーナスの手には、アトリビュート(持物)である金のリンゴが見える。これは、ギリシャ神話でトロイの美青年パリスがヴィーナスに送った黄金の林檎の伝説に基づく。それと同時に、キリスト教世界では、リンゴはアダムとイブが「原罪」を負うようになったきっかけを作った実でもある。
その上には、少女と幼い少年の姿がある。
美しいがどこか遠くを見ているような表情をした少女は、その可憐な上半身とは正反対に、蛇の尾がついた怪物の下半身を持っている。
彼女は一方の手では甘い蜜の詰まった蜂の巣を差し出し、もう一方の手では、自身の尾の先にある針を隠し持っている。甘い蜜で誘って刺す、「欺瞞」や「たくらみ」の擬人化である。
また、蛇の尾がヴィーナスの持つリンゴと近い位置に配されているのも、アダムとイブが蛇にそそのかされてリンゴを食べたエピソードを思わせる。
ヴィーナスにバラの花びらをかけようとしている少年は、「快楽」を表す。
しかし「快楽」は、自分の右足に棘が刺さっているのにはまだ気づいていない。快楽には痛みがつきものなのである。
キューピッドの足元には、ヴィーナスのシンボルであるつがいの鳩が描かれている。
その上を見ると、発狂する老婆の姿がある。この人物が象徴するものは、「苦しみ」「嫉妬」「梅毒」など諸説ある。
この作品全体が表すテーマをめぐっては解釈が議論されており、決着はついていない。
クラナハ(父)「アダムとイブ」&「ヴィーナスとキューピッド」
罪、といえばキリスト教の世界では人間の原罪が真っ先に思い浮かぶ。楽園にいた最初の人間であるアダムとイブは、神から禁じられた「知恵の実」を蛇にそそのかされて食べてしまう。
彼らは生涯にわたる苦しみを与えられ、神から楽園を追放された。そこから人類は罪を負った。女が生みの苦しみと夫からの支配、男は苦しんで食物をとり土に還ることが運命づけられた、という聖書のエピソードである。
その「神への裏切り」という人間の原罪をすべて背負って殉教し、死をもって贖罪したのがイエス・キリストだ。
この作品は、まさにその知恵の実(リンゴ)を2人が食べようとしている場面を描いている。木には蛇が巻き付き、イブをそそのかす。
イブはアダムにも実をすすめ、アダムはそれが罪だと知りながら自分の意思でそれを手にしてしまった(このアダムは頭に手をやりちょっと迷っているようだ)。
2人の周りには楽園の動物たちがおり、ライオン、猪などの凶暴な獣たちもここでは大人しくしている。ライオンの顔はまるで猫のようでもある。
画面下部の、水たまりから水を飲んでいる鹿の顔が映りこんでいる表現にも、画家の細やかな筆遣いが光る。
この作品の隣には、同じ画家が描いたヴィーナスとキューピッドの絵画が展示されていた。
すらっとしなやかな体を持つヴィーナスは、まさに愛と美の女神そのものである。裸のままこちらに視線を向け、鑑賞者を誘い込むようなエロティックさも持っている。
この作品には、上の「アダムとイブ」と似た箇所が見受けられる。
木に手をやり左向きに立つヴィーナスは、イブのポーズを反転させたようなポーズをとっている。ヴィーナスの方を向き、一方の手で蜂の巣を持ち、もう一方の手を頭に手をやるキューピッドも、アダムの身振りと似ている。
この酷似したヴィーナスとイブを「罪」と「神聖」に分けるものは何か。私たちはどこでその区別をつけるのか。見た目ではなく、背景にある話の問題だろうか。
また女性が男性を堕落させる(リンゴをアダムに与えるイブ、男性を誘惑するヴィーナス)という点においても、女性を罪と結び付けがちな当時の人々の固定観念が見えてくる。
ヤン・ステーン「飲酒の代償」
教訓を込めた風俗画でよく知られるヤン・ステーンの作品。ここには飲酒によって引き起こされてしまった「罪」が描かれている。
散らかっている家の軒先を放置して、母親は酔っぱらって寝てしまっている。その間に、子どもたちはここぞとばかりに好き放題に遊んでいる。
寝ている母親の財布を盗もうとしている小さな男の子。
娘の一人は、なんとオウムにワインを飲ませている。
後ろの方では、若い女性といちゃつく男性の姿が見える。この男性は眠っている女性の夫だとみられる。妻が寝ている隙に……ということだろうか。
こうした場面をすべて見通すかのように、一番後景には教会の建物が見える。神の教えを授ける教会と、堕落した生活を送る人々の対比がここにくっきりと浮かび上がる。
ホルマン・ハント「スケープゴート」
日本語にもなっている「スケープゴート」は、「責任を負わせる対象・身代わり」という意味で使われるが、元はユダヤ教の儀式が起源となっている。
ユダヤ教のヨム・キプルという儀式では、ヤギを一頭生贄として殺し、もう一頭を野に放つ。野に放たれたヤギは、人々の罪を運び去ってくれるのだという。
この作品では、虹が出て太陽の色に染まる美しい景色を背景に、スケープゴートとなったヤギが私たちの方を見ている。後ろに見える頭だけのヤギは、先に生贄にされたものだろうか。
キリスト教では通常、ヤギは悪魔の象徴とされるが、スケープゴートは人類の罪を背負うキリストの前身的存在としても考えられている。ヤギの頭に巻きつけられた真っ赤な布(毛皮?)は、キリストが流した血を思わせる。
「聖ジルのミサ」
神聖ローマ帝国初代皇帝のシャルルマーニュ/カール大帝が自らの重大な罪を告白、懺悔する場面を描いたもの。作者は不明なため、便宜的に「聖ジルのミサの巨匠」と呼ばれる。
手前の王冠を被った人物がシャルルマーニュ、祭壇に向かって立ち祈りを捧げているのが聖ジルという祭司である。上方からは天使が舞い降り、その手には「シャルルマーニュの罪は赦された」という内容の言葉が書かれた紙を持っている。
この作品はこの展示で初めて知ったのだが、一目で細部の素晴らしい描きこみと色遣いに引きこまれてしまった。
規則的な文様がカラフルに施された床のタイル(カーペット?)や、装飾的なテーブルクロスが映える。その中で、白い衣服を身に着けた聖ジルはとても目立つ存在であり、この白色がまた複雑な文様や装飾が多く描かれる画面を引き締める効果も持っている。
この質感の描き分けにも注目したい。本物を見るとよりわかりやすいのだが、この従者の手首のファーの部分の本物の毛のような柔らかさ、従者が支える聖ジルのマントのマットな質感がよく伝わってくる。
金色の祭壇は、小さいが緑色の宝石が至る所に嵌め込まれた豪華なもの。光を受けて輝く様子、金属の硬質な感じがしっかりと表現されている。
西洋絵画には、ここで紹介した作品以外にも、よく見てみると「罪」を表した作品が多く見受けられる。それはやはり、西洋文化の根底にあるキリスト教が、「人間の原罪」から始まる思想だからだろう。
罪があるから救済の思想があり、罪深い存在があるから神聖な存在が区別される。「罪」という概念がなかったら、西洋美術は現在の形とは大きく異なっていたことだろう。
ロンドン・ナショナル・ギャラリー「Sin」(~2021年1月3日まで)
住所:Trafalgar Square, Charing Cross, London WC2N 5DN
入場無料
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