大英博物館で開催中の、伝説の都市トロイにまつわる展示「Troy myth and reality(〜2020年3月8日まで)」に行ってきた。
ギリシャ神話に登場する古代の巨大都市「トロイ」。ギリシャ兵士が大きな木馬に身を潜めてトロイに潜入し不意をついて攻撃をしかけたという「トロイの木馬」で有名だが、このトロイ伝説にまつわる美術品を見せる展示であった。
壮大な物語を一歩一歩追うような展示だったので、この記事では展示物の紹介とともに、この物語の世界を案内したい。
3000年前を舞台とした伝説
トロイは今のトルコ北西部のあたりにあったとされる。
トロイの伝説は最初は口伝で伝わり、後世に多くの芸術家や詩人、作家がこの物語にインスピレーションを受けた作品を残した。中でも、歴史の教科書に必ず出てくる、紀元前800〜600年頃に活動した詩人ホメロスが残したとされる「イリアス」「オデュッセイア」が世界的に知られている。
「オデュッセイア」については後で触れるとして、「イーリアス」に記されたトロイ戦争をまずは追ってみよう。
トロイ戦争―人間関係が複雑に絡み合った10年の戦争
トロイ戦争の伝説は、今から3000年前にも遡る。ギリシャ軍がトロイに10年間もの軍事行動を起こした大きな戦争である。
この戦争では、英雄、暴力、愛、死、さまざまな物語が生き生きとした登場人物たちによって描かれた。
女神たちの争いから始まった戦争
この戦争は、あるちょっとした衝突から始まった。神々の結婚式に招かれなかった不和の女神エリスは、腹いせに「最も美しい女神へ」と書かれた金のリンゴを式の会場に投げ入れた。
「それは私よ!」と声を挙げたのが、3人の女神であった。神々を司る最高神ゼウスは、トロイ王子のパリスを審判に命じ、女神たちはそれぞれパリスに賄賂として、支配、勝利、美女を約束した。彼は女神アフロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)を最も美しい女神に選んだ。
この壺には、竪琴を持つ王子パリスから林檎を受け取るアフロディーテの姿が描かれている。
「金の林檎」のエピソードに、イギリスの女王エリザベス一世を登場させた作品も展示されていた(この作品は会場の最後の方にある)。エリザベス一世が審判パリスの代わりに描かれており、彼女は金の林檎を手に持っているが、それを女神に渡さず自分に与えている。
彼女は女神たちの力(賄賂)などは必要としていない。すでに力も美しさも持っているのだから―ということであるらしい。
さて、最も美しい女神に選ばれたアフロディーテの賄賂は、「最高の美女を与える」という約束だった。そこでパリスは最高の美女にしてギリシャ王の妃であるヘレネーを貰い受け(というか奪い去り)、トロイに連れ帰った。
ヘレネーが実際に強引に連れ去られたのか、人妻ながらパリスに恋に落ち同意の下トロイに向かったのか、解釈は分かれるようだ。
パリスとヘレネーの面会のシーンを描いた浮き彫り。ここでは、この略奪愛は神々の仕業と思わせるような表現がされている。
右側のパリスには、恋の擬人化であるエロス(翼を持つ少年)がヘレネーへの恋心を植え付けている。
一方画面左側、上からこの場面を見下ろしている女神はペイトーという説得の女神である。
誰の説得を味方しているのかというと、もちろん、その下でヘレネーに腕を回しながら説得する女神アフロディーテである。こうやってギリシャの女王ヘレネーはトロイに連れ去られたのだ。
ここでは、ヘレネーが強引に誘拐されているように見える。右側には男たちに身動きを封じられ無理やり船に乗せられるヘレネーが立っている。左側で腰を下ろしているパリスは、そんなヘレネーに視線をやりながら、「やれやれ」といった感じだ。
これは骨壷に施されていた装飾で、嫌がるヘレネーは死者が死後の世界に行くのを躊躇する思いを表しているのかもしれない、と解説にはあった。
ここでは、ヘレネーはパリスに恋をしてトロイに行ったのだと示す場面が描かれている。馬を連れたパリスに、ヘレネーはベールをあげて顔を見せる。ヘレネーの横、右側にはアフロディーテと翼を持つ少年エロスがいる。
全体的に現代のイラストや漫画のような表現であるところに目を惹かれた。特に馬の顔なんか、少女漫画チックで現代の漫画家が描いたのでは? と思ってしまいそうなほど。人間の表現って変わらないんだなあ。
どんな思いでヘレネーがトロイに渡ったにせよ、もちろん、妻を奪われた夫のギリシャ王は激怒。兄とともに軍隊をトロイに攻め込ませ、かくして10年に及ぶトロイ戦争が幕を開けたのだった。
トロイに攻め入ったギリシャの英雄、アキレス
トロイ戦争の登場人物のうち、最も有名な英雄がアキレスだ。アキレス腱という名称の由来にもなったギリシャ側の英雄である。その語源については後で触れるとして、まずは彼の物語を見てみよう。
勇ましい兵士であるアキレスだが、恋多き男性でもあった。
兜を被った黒い男性像がアキレスで、彼に槍を突き立てられているのは、トロイの味方をした女性兵士軍団アマゾネスのリーダーである。
彼女を刺し殺す瞬間に二人の目が合い、アキレスは恋に落ちてしまう。これはその瞬間、自分の手で殺める女に恋してしまった場面を描いている。
10年も戦争をしていれば、休戦期間も出てくるというもの。この壺には、ボードゲームをして手持ち無沙汰の時間をつぶすアキレスとそのいとこアイアスが描かれている。
それでも戦争用の防具をフル装備しているところを見ると、きちんと緊急事態にも備えている隙のなさが伺える。
トロイ戦争が始まって10年目のこと、アキレスが捕虜及びトロイでの愛人として捉えていた女性が、自国ギリシャ軍の大将(ヘレネーを奪われたギリシャ王の兄)に奪われてしまう。
これがその場面を描いた浮き彫り。男たちに捉えられ歩く女性がその愛人で、左端のアキレスはこの状況に腹を立て、やりきれないと行った感じでそっぽを向いている。
あまりに怒ったアキレスは、トロイ軍と戦うことを拒否する。その間にも、トロイ軍はどんどん迫ってきており、ギリシャ軍の船は脅威に脅かされることとなった。
さて、ギリシャ軍の大将は(そもそも自業自得なのだが)、アキレスが戦ってくれず困ってしまった。なんとかしてアキレスを戦闘に戻そうと、奪った女性も返し贈り物も与えるからと、説得しようとした。
ここに描かれているのは、大将が派遣した英雄オデュッセウスがアキレスを説き伏せようとしているところ。アキレスは体を丸め、拒否の構えだ。もちろん、交渉は失敗した。
仲間である兵士のパトロクロスは、首を縦にふらないアキレスの代わりに、彼の鎧を借りて戦闘に赴いた。しかし悲しいことに、トロイの王子であり、パリスの兄であるヘクトールに殺されてしまう。
怒りに包まれていたアキレスを、さらなる悲劇が襲ったのだった。
悲しみとさらなる怒りに包まれたアキレスは、戦場に舞い戻った。そしてヘクトールを殺し、友の復讐を遂げたのである。
損傷が激しいが、この石棺に施された浮き彫りには、アキレスが殺したヘクトール(左側)を馬車で引きずる様子が表されている。恨みは相当深かったに違いない。
この容器の側面には、その後パトロクロスの葬儀を行う場面が描かれている。
アキレスはこの時、パトロクロスの墓で12人のトロイの囚人を殺した。これは葬儀の際に生贄を供えるという当時のギリシャの風習で、ここにはアキレスが今まさに若いトロイ人の首を掻き切るところが描写されている。
その後ろにある、上半身だけの身体に見えるものは、トロイ人捕虜の鎧なので安心してほしい。
弱点の踵を攻撃されて死ぬアキレス
アキレスは、ヘクトールを殺したら自分もすぐに死ぬ運命にあるという予言を聞いていた。それを知っていてもなお、彼は勇敢に戦い続けた。
しかしついに、トロイの王子パリスの矢が、彼の唯一の弱点である踵を貫いたのだった。
死にゆくアキレスを表した、巨大な石膏像。この美しい肉体を見てほしい。制作されたのは19世紀だが、明らかに古代ギリシャ彫刻の影響を受けている。
こちらが正面。踵に矢が刺さっているのがわかるだろう。美しい英雄は、儚くも散ったのだ。
悶える表情が見事なのと、うっすらと開いた口から歯がちらりと見えている細工の細かさに驚いた。
このエピソードが「アキレス腱」の由来となったのだが、なぜ彼の弱点は踵なのだろう? それは、彼の母の神聖な守護に関わりがある。
アキレスの母テテウスが、不死をもたらすとされる川に幼児のアキレスを浸している。しかし、この時彼女が踵を掴んでいたために、浸されなかった踵だけが弱点となったのだ。
このエピソードを一目で表しているのはもちろん、彫刻としても大変優れた造形を持つ作品。赤子のぷくぷくとした体と母親の柔らかく優美な体の表現が調和している。
アキレスの死後、誰が彼の鎧を受け継ぐかで争いが起こった。いとこのアイアスと、アキレスを以前説得させようとしたオデュッセウスらしき人物が争っており、中心で仲裁するのはギリシャ軍大将である。
ちなみに、どちらが受け継ぐに相応しいかという投票を行い、オデュッセウスが票を多く取り、正式に鎧を継ぐこととなったという。
アキレスのいとこアイアスは、この鎧引き継ぎ闘争に破れたことにより、憤怒のあまり自殺してしまう。剣を地に立て、その上に覆いかぶさり自ら体を貫いたのだった。ギリシャ神話の人々はとにかく激情型である。
「トロイの木馬」作戦
アキレスをなくし、また強く応戦するトロイ軍に対し手詰まりとなったギリシャ兵は、ある秘策を考え出す。それが「トロイの木馬」である。
オデュッセウスが考案したこの案は、巨大な木馬の中に最強の兵士たちを忍ばせ、兵が引き払ったと見せかけてトロイ軍を油断させて奇襲をかけるというものだった。
ある朝、トロイ軍はギリシャ兵の姿がない見当たらないため自分たちの勝利を確信した。そして巨大な木馬を戦利品として街へ持ち帰った。彼らが勝利を祝っている隙に、ギリシャ軍は木馬の外へと出たのだった。
15世紀に描かれたこの作品には、その時の様子がいきいきと描かれている。トロイ軍は巨大な木馬を引きながら勝利に沸いている。ただ、建物と人々の服装はイタリアルネサンス風である。
この奇襲により、トロイは陥落した。男は子どもから大人まで皆殺しにされ、女性は捕虜となった。ただ一人、トロイの英雄の一人、アイネイアスだけが逃げることができた。
この場面では、混沌とした争いを横目に、逃げようとしているアイネイアスの姿が見られる。右側に立つ、幼児の息子を抱え、壁から降りようとする父親を助けようとしている筋骨隆々とした男性がそれだ。
上にはアフロディーテとエロス(子どもの姿をしている)が浮かび、彼らを助けている。
アイネイアスとその息子はイタリアへ逃げ延び、彼らの子孫はローマ帝国を建国した。アイネイアスはローマ建国の祖として古代ローマで語り継がれたのだった。
新たな冒険の始まり
さて、トロイが負け、トロイ戦争の発端となったギリシャ王妃のヘレネーは王のもとに戻ることができた。王はヘレネーを殺そうとしたが、その美しさに考え直し、再び王と王妃は一緒になったのだった。
戦争に勝利したとはいえ、ギリシャの神々はギリシャ軍の暴虐な行動に怒り、英雄たちに罰を与えた。ある者はギリシャに帰る前に死に、ある者は長い月日異国の地を彷徨わなければならなかった。
その中で、オデュッセウスは最大の冒険をした者として、ホメロスの「オデュッセイア」にその冒険譚が語られている。
さまざまな苦難や怪物に出会う彼の大冒険について、またトロイが伝説だったのか史実だったのかについては、後編の記事でお届けしよう。
後編はこちら。
大英博物館「Troy myth and reality」
住所:Great Russell St, Bloomsbury, London WC1B 3DG
入場料:大人20ポンド、16歳未満無料
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