現在(2017年2月)公開中の映画「沈黙—サイレンス—」の原作、遠藤周作の小説「沈黙」について、その素晴らしさ、読みどころを書いていく。
映画版の感想と、監督スコセッシの言葉についてはこちらから。
ここでは、ネタバレというか話の筋をもとに書いていくので、読むとストーリーはわかってしまう。
でもこの物語は、話を知ってから読んだとしても何も色褪せない。むしろ一人でも多くの人に知ってもらいたいし、この記事を読んだことで、よし読んでみよう! という人が増えたらいいなと思っている。
※それでもネタバレが嫌な人はUターンしてください
信じる、とは何かを問う物語
時は17世紀の日本。
幕府がキリシタンを禁じ、隠れキリシタンが迫害されていた世相の五島列島に、2人のポルトガル宣教師がたどり着く。
キリスト教布教を助けるため、また先に日本に布教をしに行った師のフェレイラ司祭が日本で「転んだ(=キリスト教を捨てた)」という噂を聞いてそれを確かめるためにやってきたのだ。
そこで二人は、日本人のキリシタンたちが凄惨な拷問で迫害されている現実を目の当たりにする。
二人の宣教師のうちの一人、ロドリゴが主人公だ。ロドリゴはもう一人と別れ、布教を進めるべく孤独な旅に乗り出す。のちにフェレイラ司祭とも日本で再開することとなる。
これはキリスト教vs仏教がテーマではない。もちろんそうした要素はあるが、真のテーマは「信仰とは何か」ということだ。
この物語には2つの軸がある。
- キリスト教宣教師であるロドリゴの、神への信仰心
- 日本人と西洋人の信仰心の違い
1つはキリスト教徒の、神への信仰心。もう1つは日本人と西洋人という異なる文化の人々が持つ、それぞれ異なる信仰心だ。この2つが巧みに絡まりあって、「信仰とは何か」を巡る人々の心理描写が進んでいく。
実話をもとにした物語
これは遠藤周作の全くのオリジナルではなく、史実に基づいた物語だ。
ロドリゴはジュゼッペ・キアラという実在したポルトガル司祭をモデルにしている。師のフェレイラ司祭はクリストヴァン・フェレイラという、これも実在の人物が基になっている。
そして、フェレイラは拷問のすえキリスト教を捨て、沢野忠庵という日本人名を名乗り、日本人の妻子をもらい日本人として生きていくことを選んだ。
キアラは、棄教後に岡本三右衛門という名をもらい、同じく日本人の妻子を持ち日本に骨を埋めた。
キアラがポルトガルの教会にあてた手紙では、日本はどのような状態か、自分たちが日本で何を見たか、何をしたかが克明に書かれていた。
遠藤周作はこれらの史実をもとに「沈黙」を書いた。
こんな壮絶なドラマが実話だということもすごいが、これを日本人が書いたことにも感銘を受けた。だが日本人でなければ書けなかったとも思う。そのわけは下の「日本人とキリスト教の神の違い」を読み進めてくれればわかる。
心理描写の真骨頂
そう、結論から言うと、ロドリゴ、そしてその師のフェレイラ司祭は日本で棄教してキリスト教の教えを捨てたのだ。
物語ではそれまでの経緯を、ロドリゴの独白を交えて進んでいく。
何度でも言うが、これは、信仰のものがたり。宗教というテーマの皮を被っているけれど、信仰というものがいかに内面で進んでいくかが見事に描かれている。
神はいないのではないか、という疑い
「パードレ(ポルトガル語で司祭という意味)」とロドリゴを呼びあがめ、懺悔をさせてもらおうとする日本人のキリシタンたちは、厳しい大名の踏み絵(=キリストを彫った石板や板を踏むこと。キリストへの信仰心がないかどうかを見るために幕府が使った)審査に引き立てられる。
どうしても踏めなかった者たちは、穴吊りや海でのはりつけの刑など、無残な拷問を受けて死んでいった。それを目の前にしたロドリゴは、徐々に神の存在に疑問をいだき始める。
どうして神は黙っているのだろう? 神は試練をお与えになるが、善良なキリシタンたちにここまでの試練を与えなくてもよいのではないか?
ロドリゴは祈った。死にゆく信者たちのために祈った。だがそこにあるのは沈黙だ。神は救わない。みな死んでいく。
神はいるのだろうか、というあるまじき考えがロドリゴの頭をよぎる。キリスト教の司祭ともあろうものが、神の存在を疑うのだ。
母国から離れ弾圧され、孤独で凄惨な状況下で、人はまっすぐな信仰心を保てるほど強くない。これはキリスト教信者が、いや、あらゆる種類の信仰を持つ人々が歴史のなかで繰り返してきた問いかけに違いない。
信仰をとるか、命をとるか
幕府の目的は、一般のキリスト教信者を苦しめることではなく、日本でのキリスト教の根絶である。キリスト教徒をどれだけ殺しても、それは「殉教」という尊いものとしてさらに信者の信仰心をあおってしまう。それは逆効果だったのだ。
そのため一般信者ではなく、「根」である、西洋から送り込まれてくる宣教師に狙いを定めた。
幕府は一般信者を苦しめ、宣教師に「お前が信仰を捨てさえすれば、農民どもは解放してやる」と棄教を進めた。キリスト教にとっては、信仰を捨てることが信仰を守って死ぬことより辛いものだという前提がここにある。
「お前が来たばかりに、多くの者が死んでいく」と大名は言う。
「彼らは神のために死んだのだ。私のためではない。彼らは信仰のために死んだ」とロドリゴは信じる。
そう自分でつぶやきこそすれ、引き立てられる農民の一人が泣きながら縋る様子を見て、ロドリゴは思わず「(踏み絵を)踏んでいい」と言ってしまう。
自身の信仰について揺れ動くロドリゴの描写は、迫真だ。信仰を捨てることが死より辛い信者にとって、これは何よりも苦しいせめぎあいだろう。
日本の神とキリスト教の神の違い
そしてついに、ロドリゴは師のフェレイラに引き合わされる。信仰を捨て、日本人の名前を受け、日本人として生きる「裏切者」となったフェレイラにだ。
フェレイラは彼に教える。「日本人はキリスト教を自己流に歪めて受け取っている。彼らがあがめているものは我々があがめている神ではない」と。
だがロドリゴには信じられるわけがない。この目で殉教する信者たちを見て、「ゼウス」に祈る姿を見てきたのだから。
だがフェレイラは諭す。「彼らのゼウスは我々のゼウスではない。彼らは自分の元の信仰にキリスト教を融合させた。彼らがゼウスとしてあがめているものは、太陽神、大日と呼ばれる太陽の化身だ」。
「どんなにキリスト教を広めても、本物と同じようにはこの国には根付かないのだ」と。
そして「彼らはお前(=ロドリゴ)のために死んだのだ」とも告げる。
彼らがしたことは、神への殉教ではなかった。宣教師のために死んでいったのだ。
だから、フェレイラは、布教よりも自分が「転んで」人の命を救うことを選んだ。
フェレイラ自身もロドリゴと同じ光景を見、苦しみ、悩みぬいた末に出した結論がそれだった。ここにも巧みな心理描写がある。
異なった価値観、というものについて考える
日本人の大名が、宣教師に言う。「あなたは日本を知らない。」
宣教師は返す。「あなたもキリスト教を知らない。」
キリスト教を禁じようとする政府に、ロドリゴは反発する。「キリスト教は真実で、真実は普遍のはずだ。ポルトガルでも日本でも、真実に変わりはないはずだ」と。
日本人の私としては、無理やり押し付けといて何て傲慢な、という気になるが、宣教師たちが本当に心の底からそう信じていたのも事実なんだろう。
上のフェレイラとロドリゴの対話と、この大名とロドリゴの対話が一番のハイライトだ。
違う文化に属する人々が、それぞれ異なった価値観の中で生きている。それぞれがそれを本気で信じている。それを知ることが大事なのだと思う。
宗教に限定するなら、自分はどうだろうか、と考えた。
私はキリスト教信者ではない。まあまあ仏教・神道よりの宗教観で、敬虔な信者ではないけれど葬式は仏教で行うし、初詣は神社に行くし、ごく一般の日本人的宗教観だろう。
だからキリスト教の考えは(人生の中で西洋美術を学ぶために多少勉強したとはいえ)、それに触れ続けて育った人のようには、心の底からはわからない。
逆も同じで、キリスト教信者にも日本人の宗教観は感覚的に理解できるものではないだろう。
私は、今すぐ殺されたくなかったら神様仏様の像を壊せと言われたらいくらでも壊す。でも、命を助けてやるから今後死ぬまで神様仏様のことを思うなと言われたら、それはできないだろう。そうした信仰心は無意識のうちにあがってくるものだから。
奪えないもの
宣教師が踏み絵を踏んだ瞬間
信者が穴吊りされている前で、ロドリゴの足元に踏み絵が置かれる。
これを踏めば、信者たちは助かる。
だが同時に、教会にとって、神にとって、「裏切者」となる。幻滅した師匠、フェレイラと同じところまで落ちる。
その時、初めて神が「沈黙」を破った。
「踏むがよい」と、ロドリゴに神は言った。「私はあなたの苦難をともに引き受けよう」と。
ロドリゴは苦しみながら踏んだ。そして正式に、信仰を捨てた。だが少なくとも、人の命を救った。
「日本人のユダ」
一番最初にロドリゴが会う日本人が、キチジローという名のアル中の青年だ。彼はキリシタンだが、命拾いするために何度も踏み絵を踏む。それどころかロドリゴを役人に売る。
けれども、「パードレ、すまねえ」と言って、何度でもロドリゴが捕えられた檻まで侵入し、懺悔をする。
裏切り、懺悔を繰り返すキチジローに、ロドリゴは途中から愛想をつかす。この物語では、ロドリゴがキリストならキチジローはユダだ。
実際に、ロドリゴはキチジローを見てユダのことを思い出す。
だが、最後のシーンで、すでに「転んで」キリスト教を捨てたロドリゴのもとにキチジローがやってくる。「パードレ、懺悔をさせてください」と。
「もう私はパードレではない」とロドリゴが拒否しても、彼は「それでもあなたがここでただ一人のパードレなんだ」と縋る。
ここで、神の声がまた語りかけ、結局ロドリゴはキチジローにパードレの役割を果たす。
この場面で、私はキチジローとロドリゴは同じなのだと理解した。
どんなに踏み絵を踏んでも、卑怯でずるくても、自分の中の信仰は捨てなかったキチジローと、形式的に信仰を捨てても、心はパードレとして生きたロドリゴ。
「個人の信仰」を捨てなかった、捨てられなかった人たち。そしてロドリゴも、自分がキチジローと同じであることに最後に気がつく。
これは一種の芸術書である
形だけ見れば、これは宣教師に対する日本の勝利だ。宣教師はキリスト教を捨てて日本人として生きることとなったのだから。
だが、これはそういう宗教戦争の話ではもはやない。勝ち負けではない。正解は存在しない。どちらに感情移入するのも、しないのも、共感するのも、反発するのも自由だ。
きっと、読んだらどんな方向であれ心を揺さぶられると思う。それだけ美しい文章で、「信じるもの」の内面を描いている。
「信じるもの」は何も宗教だけではない。個人が信じること、もの、信条、人物、全てに通じる。
芸術というものが「感性を揺さぶる何か」だとしたら、スコセッシ(この「沈黙」を映画化したアメリカの監督)が言ったように、これはある種の「芸術書」だと思った。
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