博物館展示からロンドン史を見る③(中世前編)民族入れ替わりとセント・ポール大聖堂建造

【シリーズ】博物館展示からロンドン史を見る
スポンサーリンク

Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。今回は、いよいよローマ人が支配した古代が終わり、中世に入っていく。

1つ前の記事はこちら。

博物館展示からロンドン史を見る②古代ローマ時代の衛生観、医学と宗教
Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。ロンドン史第2弾。いちばん初めの第1弾はこちら。このシリーズの目次はこちら。前回に引き続き、今回は古代ローマ人が現在のロンドンの

本シリーズのこれまでの記事はこちら。

イギリスの歴史をわかりやすく解説する記事一覧まとめ
博物館の展示からロンドンの歴史を学ぼうシリーズ(随時更新中!)Museum of London(ロンドン博物館)の展示品をもとに、ロンドンの歴史を物語のように(なるべく)わかりやすく解説するシリーズ。旧石器時代~古代中世近世その他イギリス史

イギリスの中世はとても長い。410~1558年と1000年以上の期間が中世に区分される。この記事ではその前半、400~1000年頃までのことを紹介する。

これまでは、イングランド先住民族のケルト人をローマ帝国からはるばるやってきたローマ人が駆逐し、ローマ帝国の支配下になったというシンプルな情勢だった。

だが、ここからのイングランドはもう民族の入れ替わりや王国の乱立などがしっちゃかめっちゃかである。まさに征服と移民の歴史なのだ。なるべくわかりやすいように説明していきたいと思う。

スポンサーリンク

400年代:ローマ人の撤退とアングロサクソン人の侵入

410~450年、ロンドンは「空っぽの時代」であった。この時代までに、ロンディニウムにいたローマ人兵士たちはゆっくりと離れていき、人口が減りつつあった。

さらに、407年に西ローマ帝国皇帝(当時のローマ帝国は巨大だったため、西と東に皇帝がそれぞれいた)コンスタンティヌス3世が、フランスに侵入してきた他民族を倒すためにブリタニアから残りの軍をすべて連れて行ってしまった。

そして410年、ローマ帝国はブリタニアからの「軍を送ってほしい」という要請を拒否。ローマ帝国側がロンディニウムとのかかわりを断ち切った形となる。こうしてロンディニウムは捨てられた街となった。ローマ人の撤退と共にキリスト教も忘れられてしまった。

もともとブリタニアにいたケルト人たちは、また従来の部族制を復活させ、ブリタニアには多くの異なるグループ(部族)が暮らすようになった。

ではケルト人たちはローマ人の支配を脱して安心して暮らせたか……というとそうではなかった。

アングロサクソン人の剣やガラスの容器 400~700年

古代ローマ人がブリタニアを放棄してすぐ、400年代にゲルマン系のアングロサクソン人がドイツ辺りからやってきたのである。ゲルマン系言語の「Englisc(古英語)」を話し、ローマ人とは異なる文化を持つこの民族に、ケルト人たちはまた駆逐された。

アングロサクソン人は、ロンドンを含むイングランドの広いエリアに広まり、複数の王国を作った。東サクソン、西サクソン、南サクソン……というような感じである。その名前がそのまま、現在のイングランドの地名に残っている。

  • East Saxon→現在の地名:Essex(エセックス)
  • West Saxon→現在の地名:Wessex(ウェセックス)
  • South Saxon→現在の地名:Sussex(サセックス)

だがこの時はまだ、ロンドンの中心部に人は住んでいなかったようだ。

600年代:ロンドンの発展、セント・ポール大聖堂の建造

ブローチ 600年代半ば

600年代になると、ようやくアングロサクソン人はロンドンに目を付け始める。ローマ人が捨てた街を「Lundenwic」と呼び、定住するようになり、交易が発達していった。

画像は、ロンドンに住んでいた裕福なアングロサクソン人女性が所有していたブローチ。現在のコベントガーデンにあった墓地から発掘された。

櫛 700年代後半~800年代

動物の骨から作られた櫛。現在のロイヤル・オペラ・ハウスの辺りから発掘されたもの。結婚祝いのプレゼントだった可能性もあるという。

イングランドにキリスト教再び

そして、古代ローマ人の撤退により忘れ去られていたキリスト教は、この時までにアイルランド経由で再びイングランドに入ってきていた。

そして607年、現在のロンドンの一大観光地、セント・ポール大聖堂が建てられた。おそらく有名なロンドンの観光地の中では、一番古い歴史を持つのではないだろうか。

こうして、アングロサクソン人は現代にいたるまで長く繁栄したのだった……という話かというと、そうではない。700年代に入ると、今度は北からヴァイキングたちがイングランドを目指してやってきた。

800年代:ヴァイキングの侵入~ロンドン争奪戦の時代

テムズ川で発見されたヴァイキングの剣 700~800年

ノルウェーやデンマークなどの北国からやってきたヴァイキングたちは、ヨーロッパ中に侵攻した。イングランドも例外ではなく、ヴァイキングは842年と851年の2回ロンドンを襲撃、そしてついにデンマーク王が軍隊を率いて865年にイングランドに上陸、アングロサクソン人を打ち負かした。

そして872年、ヴァイキングはロンドンを拠点としたのだった。ここから、アングロサクソンとヴァイキングのロンドン争奪戦(イングランド王位争奪戦)が始まる。

ヴァイキングの武器 1000年代初頭

ややこしいので、時系列順に箇条書きにしてみよう。ヴァイキング系を青、アングロサクソン系を赤にしてわかりやすくしてみた。

この時代はロンドンで多数の戦いが起こった。アングロサクソンもヴァイキングも、川に近く交易や商売に便利な立地であるロンドンが欲しかったのである。

  • 865年:ヴァイキングがアングロサクソン人を負かす
  • 872年:ヴァイキングがロンドンを拠点とする
  • 878年:西サクソンのアルフレッド王がヴァイキングに抵抗を始める
  • 886年:西サクソンのアルフレッド王がロンドンを奪還。だがヴァイキングは去ったわけではなく、イングランドの北と東を支配していた
  • 994年:再びヴァイキングがロンドンを襲撃
  • 1016年:ロンドンはまたもやヴァイキングのクヌート1世に征服される。これを機に北のスカンディナビア半島から多くの人々がロンドンに移り住み、彼らもまた独自の言語や文化をイングランドに伝えた。
  • 1042年:アングロサクソンのエドワード懺悔王が再び王位を手にする(この頃には、この懺悔王はヴァイキングと血縁のつながりを持つようになっていたので、これは戦争ではなく比較的安定した? 継承だった)。ロンドンに王宮やウエストミンスター寺院を建設
  • 1066年:フランスを侵略したヴァイキングであるノルマン人がフランスからイングランドにやってきた。イングランドを征服し、ロンドンを拠点にノルマン朝を建国(これが「ノルマン・コンクエスト」)。
    ヴァイキング系フランス人であるノルマン王ギヨーム2世が、イングランド王ウィリアム1世としてイングランドを統治し始めた。

ここで残念なお知らせだが、イギリスの王家はさらにややこしくなっていく。

すでにウィリアム1世はフランス出身なのであるが、ここからは、フランス系の血筋がイギリスに入りまくっていく。というか、王朝のほとんどがフランス系の人々で構成されていくのである。

現代のイギリス人の人種は何か?

これまで見てきたように、もとはケルト系原住民が住み、古代はローマ人、中世はアングロサクソン人とヴァイキングが入り乱れるというカオスな歴史を持つイギリスだが、現在のイギリス人の人種はどれなのだろうか。

イギリスは一般的に「アングロサクソン諸国」と呼ばれる国々の中に含まれる。だがこれはアングロサクソンが使っていた英語を今も使っている白人国家、というような意味であって、人種的な意味ではない。

遺伝子的な答えで言えば、現代のイギリス人は、これまでの歴史をそのまま沿うように、ケルト系やアングロサクソン、ノルマン、デーンなど北方ヨーロッパの人種が混ざっている。

今回は民族や人種の入れ替わりに終始してしまったが、もちろんこうした戦争の間にも、ロンドンの一般市民は生活をしているのである。

次回は、王朝の流れはさっとまとめて、ロンドンの人々の生活や文化を見ていこう。ちなみにこの記事を書いていて、ロンドンの超有名宗教建築である、セント・ポール大聖堂も、ウエストミンスター寺院もどちらもアングロサクソン人の作であったことに気づいた。

ロンドンはここから、ますますイングランドの政治、文化、経済の拠点として発展していく。

次の記事では、ロンドンに住んでいた人の暮らしを覗いてみよう。

博物館展示からロンドン史を見る④(中世中編)ロンドンの文化と人々の暮らし
Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。今回は、中世のロンドンの人々の生活について見ていこう。1つ前の記事はこちら。本シリーズのこれまでの記事はこちら。イギリスの中世は

Museum of London

住所:150 London Wall, London EC2Y 5HN

入場無料

コメント