大英博物館で開催の特別展「Hokusai: The Great Picture Book of Everything (~2022年1月30日)」に行ってきた。一度も発刊されなかった葛飾北斎による図鑑「万物絵本大全図(The Great Picture Book of Everything)」の肉筆画103枚が、世界で始めて披露されるという大変貴重な展示である。
「再発見」された、まだ世に知られていない北斎作品
これらの作品が制作されたのは1820~40年代。経緯は不明だが出版されたことは一度もなく、以降これらの肉筆画はフランスの個人収集家に所有されていた。
その後長らく所有者も不明となり「失われた作品」となっていたが、2019年にパリで再発見され、2020年に大英博物館が購入することとなった。発見ほやほやの作品群なのである。
北斎の抜きんでた画力を用いてこの世のさまざまな事物を紹介する図鑑であり、私たちは、当時の日本人の世界を見る目を通してそれらを楽しめるのだ。今回は、この展示で見られる興味深い作品を紹介していきたい。
扉絵には「西戎 中華」の文字。西戎はインド、中華は中国のことで、右にはインドの仏僧、左には中国の少年が立ち、題字を支えている。そう、万物絵本大全図は、主にインドと中国の物事がメインとなっているのだ。
中国の伝説や文学を描いた作品
図鑑の中で、北斎は中国に伝わる冒険譚の場面を多く描いた。これは有名な中国の伝説「西遊記」の一場面で、玄奘三蔵法師と孫悟空が西域を目指しているところ。
周生という道士が中秋節に雲の梯子で月まで登る様子を描いたもの。これは、周生がついに月にたどり着き、それを手にとったクライマックスの瞬間を切り取っている。画面上部の墨のグラデーションで夜を表し月の光を際立たせているのは見事だ。
詳細は不明だが、海の大魚が船を襲おうとしている場面。大魚が出てくる神話や伝承は世界各地にある。また、中国でも、日本の海坊主に似た、船を襲う怪物の伝承がある。
いかにも冒険譚という感じの光景。儒学者とその連れが嵐の中、伝説の大鳥「鵬」の卵の殻を見つけ、そこをシェルターにする場面だ。勢いのある線によって強く打ち付ける雨を表すこの表現は、現代の漫画にも見られる要素だ。この展示では、現代の漫画文化にも通じる表現をいくつか見ることができる。
世界のさまざまな国々の擬人化と妖怪図
この展示で特に面白かったカテゴリ。いろいろな国の当時のスタンダードな人物像を描き分けた作品だ。
それぞれの人物の周りには、その国の呼び方が複数書かれている。インドのスペースに書かれた「身毒」とは、古代中国で使われていたインドの呼び名という。音からの当て字なのかもしれないが、ちょっと禍々しさがある漢字だ……。
やはり日本周辺の国々がモチーフとして取り上げられることが多い。ベトナムの右上に「東京」の文字があるのは、ベトナムのハノイが歴史的に東京(トンキン)と呼ばれていたためだ。当時、日本に東京はまだ存在していない。
北斎の人物像は、どれも衣装の表現が大変細かく丁寧に描かれている。ちょっとしたファッションショーを見ているような感じもする。
蝦夷は主にアイヌ人を指すとされ、確かに毛深い風貌や厚い毛皮の衣類などはアイヌ人のイメージとして知られるものと合致する。
中央のポルトガル人像は、16~17世紀の服装をしているという。日本は鎖国により1639年からポルトガル船来航を禁止し、鎖国中に来日できるのはオランダ人のみであった。この作品が描かれた1820~40年代も日本は鎖国中であったから、それ以前、まだポルトガル人が日本に来ることができた17世紀ごろの服装がイメージとして残っていたのかもしれない。
さらに、風変わりな人々がいる国についても北斎は描いていた。この作品では、巨人と小人(巨人の手の上に乗っている)、手が長い人間が登場している。
日本の外にある世界では、こうした奇妙な人々や生き物が住む国を、当時の人は想像していたのだろうか。
翼を持つ羽民国は、天狗にも見える。狗国女は、犬の国から来た女性。文身国人は、入れ墨を全身に入れた男性である。
地域によっては、全身に入れ墨や文様を施した部族もいる。そうした異国の風習や文化についての話がインスピレーションを与えたこともあったのかもしれない(←これは私の想像でしかないが)。
ここまでくるとだんだん妖怪ぽくなってきた。どれも中国に伝わる伝説上の人種である。飛頭蛮は中国に伝わる頭が体から離れて飛ぶという妖怪だが、この作品では、頭部分に「ろくろ首」とも漢字で書いてあるとおり、日本の妖怪ろくろ首に似ている姿をしている。同一視されていたのかもしれない。
胸に穴の開いた胸穴国人は、古代中国の地理書「山海経」に登場する。高位の人物は胸の穴にかつぎ棒を通し、従者がかついで移動したというシュールな伝説が残る。
異国の動物や幻獣たち
「万物」と名のついている図鑑の通り、さまざまな国の人々だけでなく、多様な生き物も描かれている。主に異国の生き物や伝説の生き物が中心である。
伝説の生き物である麒麟と白澤。白澤は山羊のような体に老人の顔を持ち、人語を話し、万物についての知識を有する中国の神獣。胴体に複数の角と目があるが、合計で5つの角と9つの目を持つという。
1枚目の麒麟は1本角だったが、こちらの麒麟は2本の角を持つ。体の斑点模様も異なり、麒麟にもさまざまな見かけのものがいるらしい。ここで北斎は「龍に寄る圖(図)は非ん(龍に似せて描くのは間違っている)」という注意書きも添えている。
獏(ばく)は中国から日本に伝わった伝説上の生き物で、その長い鼻で夢を食べるとされた。ちなみに、動物のバクは、この伝説上の獏に姿が似ていることからバクという名がつけられた。バクとしてはこの幻獣の方が先なのである。
ここからは実在の動物。海獺はラッコとアシカを指す言葉であるらしい。英語のキャプションでは右の動物はラッコだそうだが、私にはアシカやアザラシの類に見える。
水牛は中国やその他のアジアの国で家畜として広く使われていたが、日本にはいない動物であった(琉球では使われていたようだが)。これらは異国の珍しい動物として捉えられていたのだろうか。
実在の動物と伝説が混ざっている。ラクダ(駱駝)は西方から来たエキゾチックは生き物として日本で見世物として人を集めた。1824年に江戸でラクダが展示されたという記録があるから、それを北斎が見た可能性もある。ラクダの背に乗る猩々は、猿に似た伝説上の生き物である。
風狸(ふうり)は中国と日本の妖怪で、空を飛ぶ狸のような生き物であるという。
銃弾が当たった表現がまるで漫画のようで目を引いた作品。そうすると、猪の驚いた顔もややコミカルに見えてくるから不思議だ。また、猪のふさふさとした毛並みの細かな筆致にも注目したい。積もった雪、動物の毛皮、硬そうなひづめなど、質感の描き分けが素晴らしい。
上の2羽はオウムの一種、右下は七面鳥、左下はジュケイという中国原産のキジ科の鳥である。左上のオウムは、「己が胸の肉を食う」という奇妙な説明書きがあるが、どんな仕草からそんな伝説が生まれたのだろうか……。胸の毛づくろいとかだろうか。
白と黒で対のように描かれたこの2頭は、右がダチョウで左がヒクイドリである。
ダチョウは「アフリカ産」「世界一の巨鳥」と横に説明が書いてある。しかし謎の名前スドロイスホウゲルとはなんぞや。どこかの言語でダチョウをそう呼ぶのかもしれない……と色々調べていたら、goo辞書にこんな情報が。
鳳五郎(ほうごろう)
ダチョウの別名。江戸時代、オランダ語struis vogel(ダチョウ)のvogel(鳥)の部分のなまったもの。
なるほど。ほうごろう……ホウゲルと似ているな……それでダチョウのオランダ語表記は「Struisvogel」……スドロイスホウゲル…あっこれじゃん!!なるほど、この謎ネームはオランダ語の「ダチョウ」だったのだ。
ヒクイドリの横には、「駝鳥とするは誤り」という注意書きがある。実は、日本語の「駝鳥」は先に伝わってきたヒクイドリを指す名前だったのだそうだ。それを知ると、この注意書きもより納得がいく。
その他自然界を描いた作品
動物だけでなく鉱物や珊瑚も紹介している。メノウや硫黄、珊瑚、砒石(ヒ素を含む鉱物の一種。画面右上。「毒がある」と書かれている)などが並ぶ。
左下の磁石は、金属がくっつく性質を表すためか、鉄くぎややっとこが描かれているのが面白い。
高知県の神峯神社にある樹齢900歳の古樹を描いたとされる作品。太い枝の向こうに鳥居と神社の建物が見える。まるで自分がこの巨木の枝か、または同じ高さの丘に登り、枝の隙間から神社を覗いているような、そんな角度。
この構図には感動した。「富嶽三十六景」でもそうだが、北斎は遠近感を活用した構図作りが本当に巧みだ。
インドと仏教をモチーフにした作品
北斎が生きていた時代、インドは釈迦の生まれた地として認識されており、仏教と縁のある土地であった。この図鑑の中には、インドから伝わった仏教に加え、インドの王族の伝承にまつわる場面などが収録されている。
とても迫力のある龍が特徴的な、龍頭観音の絵。観音は33種類の姿を持つといい、龍頭観音はそのうちの1つ。
観音の姿よりも先に、龍の眼光に目が引き寄せられる。ごつごつとして固く力強い龍の体は硬質な筆致で表され、背景の雲がかった空は柔らかな筆遣いで輪郭のないグラデーションで表されている。
右下の「天竜夜叉」は、釈迦如来の眷属である八部衆のうち、天衆、竜衆、夜叉衆のことである。
普明長者(インドの伝承に出てくるスタソーマ王の日本名)が巻物で妖狐を呼び出している場面。9つの尾を持つ九尾の狐としてここでは描かれている。妖狐が美女に化けるという話はインド、中国、日本にあったようで、当時の日本では人気がある物語であったという。
蜜人とは中国でのミイラの呼称であり、中国の薬学書「本草綱目」には、死体を蜂蜜漬けにして作るミイラというものが出てくるのだという。そうしたミイラは薬として効能があるとされていた。
この絵では、男がミイラをスライスしている様子が見られる。髪の毛や髭の巻き具合から、これらの男たちはインド人ではないかとされる。日本では仏教的な文脈で即身仏というものはあったが、いわゆるこうした異国のミイラのようなものはなかった。ただ、薬としてのミイラは江戸時代に日本にも輸入されていた。
流離王とは、古代インドコーサラ国の王である毘瑠璃王(ヴィドゥーダバ)のことだ。ブッダの出身一族であるシャカ族と敵対し、シャカ族のもとに進軍した。だが、その前にブッダは彼の死を予言しており、流離王は予言通りシャカ族への勝利を祝う宴の最中に落雷によって死亡したという。
閃光とその衝撃のすさまじさが伝わってくる。この落雷の表現も、漫画に通じるものがあるだろう。というか漫画そのものだ。今から200年くらい前の絵なのに。
婆羅門(バラモン)は、インドの中で最も社会的地位が高い祭司の身分の人々である。また、インドの仏僧を総称してバラモンと呼ぶこともある。逆に外道は仏教以外の教えを信じる者を指す。
中央の豪華な服をまとう天童は仏教の守護者であり、それが子どもの姿となって人間界に現れたものだ。
婆羅門は天童を拝むように手を組み、一方、外道はそっぽを向いてただ無知なまま座っている。両極端である。
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モチーフが多岐にわたっていて、大変楽しい展示であった。各作品(ページ)には北斎によるちょっとした説明や注意が書いてあるため、それが読める日本人ならさらに楽しめると思う。
大英博物館「Hokusai: The Great Picture Book of Everything (~2022年1月30日)」
住所:Great Russell St, London WC1B 3DG
料金:大人9ポンド、16~18歳8ポンド、15歳以下無料
数年前の大英博物館開催の北斎展のレポはこちら。
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