美貌で貧民から上流階級に上り詰めたミューズ、エマ・ハミルトン

耽美
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エマ・ハミルトンというイギリスのファム・ファタールをご存じだろうか?

ファム・ファタールとは、もとはフランス語から派生した、「運命の女」の意味。男性を破滅させる魔性の美女という意味でも使われる。

さまざまな男性の「ファム・ファタール(運命の女)」または「ミューズ(女神)」となったエマは、貧困階級に生まれ、一時期は娼婦にまで身をやつしたものの、その美貌で上流階級まで上り詰めた女性だ。

そんな彼女の生涯を明らかにした展示「Emma Hamilton; Seduction and Celebrity」(~2017年4月17日まで)がNational Maritime Museum(国立海洋博物館)で開催されていたので行ってきた。

この博物館は、グリニッジ平均時の基準となることで有名なグリニッジにある。ロンドンのゾーン3にあり、電車も通っているが、テムズ川を走るフェリーに乗っても行けるので、今回はフェリーを使った。

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グリニッジの海洋博物館へフェリーで向かう

家の近くのロンドン塔のフェリー乗り場から。

ここはテムズ川。どうでもいいことだが、この写真を撮った時に水鳥がたくさん泳いででいて、「わーかわいい」と見ていたけど、よく見たらそのうち一羽はビニール袋だということに気づいてなんかむなしくなった。

フェリー乗り場でグリニッジに行くフェリーを待つ。

フェリーでロンドンのシンボルとでもいうべき、タワーブリッジをくぐって進む。

グリニッジまではフェリーで15分くらいとごく近い。フェリー内にはちゃんとしたカフェがあって、各種飲み物や軽食を買うことができる。

グリニッジで降りて広い公園の中を歩く。

この巨大な船は19世紀の快速帆線カティサーク号。中国からイギリスまで高速で茶を運ぶため(ティークリッパー)に作られた。現存する唯一のティークリッパーだ。

これが博物館の入口。

ではここから、「エマ・ハミルトンのファム・ファタール的人生」を見ていこう。

貧しい田舎娘がロンドンへやってきた

1765年、イングランド北西部のチェシャーで彼女は生まれた。若いころにロンドンに移り住み、家政婦として働き生計を立てていた。

だが、14~16歳頃には娼婦の道に入ったとみられている。

彼女の住まいであり、今はロンドンの一大観光地となっているコベント・ガーデンは当時、性産業が盛んな土地だった。また、当時は多くの女性たちが生きるために娼婦にならざるを得ないという時代背景もあった。

美しさで有名になる

15歳の時、Sir Henry Fetherstonhaugh という準男爵の愛人となった彼女は、彼の子どもを身ごもる。

© National Trust / Andrew Fetherston

だがヘンリーはそんなエマに怒り、彼女をのけ者にした。その時の子どもは祖母に預けられ、育てられたという。

余談だが、Sir Henry Fetherstonhaugh は敬称である「サー」がついており、準男爵という地位にあるが、カテゴリとしては平民である。ある程度のお金を出せば手に入れられた称号で、貴族としては認められていなかったようだ。

エマは17歳になるまでに、その美貌で社交界での地位を徐々に上げていった。

画家ジョージ・ラムニーの「ミューズ(女神)」に

チャールズ・グレヴィルという貴族と恋に落ちたエマは、ジョージ・ラムニーという画家を紹介される。
ここで、グレヴィルのファム・ファタールだけでなく、ラムニーの「ミューズ(女神)」となったのだった。

この展示では、ラムニーの描いた美しいエマのポートレイトの数々を見ることができた。

ジョージ・ラムニー「Emma as Circe」1782年

Circeとは、ギリシャ神話の魔女キルケーのこと。もとは愛の女神であった。

ラムニーはよく、エマをギリシャ神話の女神やシェイクスピア作品の登場人物に見立てて描いた。地位を持っていない彼女の「だれでもない」匿名性が、彼のインスピレーションを自由にはばたかせた。

ジョージ・ラムニー「Emma as a Bacchante」1785年

Bacchanteとは、ワインの神であるディオニュソス(またはバッカス=Bacchus )の女性信奉者。ディオニュソスに理性を失わされ、暴力や性交などに及んだとされる。

こんな題材を、貴族の女性をモデルにしては描けないから、美人で地位のないエマは適任だったのかもしれない。

ジョージ・ラムニー「Emma as a Bacchante」18世紀

ジョージ・ラムニー「Emma as the Spinstress」1782-85年頃

この作品は、エマの日常生活を見せるような作品だ。糸つむぎをしている労働階級の女性風だが、その顔の美しさ、唇や目元の艶やかさをありありと描いている。

庶民にも女神にもなれたエマは、ラムニーにとってはのめり込めるモデルだった。

貴族ウィリアム・ハミルトンと結婚

恋人グレヴィルにナポリに連れていかれたエマは、ナポリに駐在するウィリアム・ハミルトンと出会う。

1787年、エマが22歳になるまでにはウィリアムの愛人となっていたことがわかっている。その時には、グラヴィルには正式な結婚相手ができており、「ちょうどよかった」のだという。

ウィリアムはエマにぞっこんになり、グラヴィルへの手紙で「彼女の音楽の知識は素晴らしい」とその素養もほめている。
ウィリアムと上流階級の社交界に出入りすることで、エマも徐々に教養を身に着けることができた。

そしてついに、1791年にウィリアムとエマは結婚し、彼女は正式に貴族の妻となったのだ。

その直前に描かれたエマの肖像画がある。野性味を帯びた美しさを持ったエマだ。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 「 Lady Hamilton as a reclining Bacchante」1790年

エリザベートは18世紀に最も有名だった女性画家。この自画像が有名かな。↓

彼女はエマのことをあまり評価していなかったみたいだが、それでもこんなパワフルな肖像を残すほど、その輝くばかりの存在感は認めざるをえなかったようだ。

上流階級では最後まで完全に受け入れられたわけではなかった

「品行方正のお手本になれたらいいと思っているわ。美しい女性皆が皆、頭が足りないわけではないって世間に見せてやりたいの」(エマ 1791年)

14年間で、彼女は上流階級の中でも最高のハイ・ソサイエティに属すようになり、ナポリの女王とも親しくなる地位までのぼりつめた。その名声はヨーロッパ中に広まっていったのである。

だが、当時のハイ・ソサイエティでは出自が重要視されており、きちんとした出自でないエマは、貴族の家系を持つ女性たちのように完全に受け入れられるとまではいかなかった。

作家ゲーテをも魅了した舞踊

トーマス・ローレンス「Emma as La Penserosa(物思いにふけるエマ)」 1791-92年

ウィリアムの愛人時代から発表していた、踊りと演技を組み合わせたパフォーマンス「Attiude」は、エマをますます有名にした。多くの知識人が魅了され、その中にはあの偉大な作家、ゲーテもいた。

エマはギリシャ神話の女神や女王クレオパトラなど、さまざまな女性像をそこで演じた。

ナポリだけでなく、スペイン、パリ、ロンドンなどにも広まった名声は、彼女を当時のファッションアイコンにも押し上げたのだった。

ネルソン提督とダブル不倫

べタぼれしてくれている夫ウィリアムがいるのにも関わらず、エマはイギリス一の英雄、ネルソン提督と恋に落ちる。2人の関係は1799年からイタリアで始まったとされる。

ネルソン提督の名前は教科書で見たことがあるという人は多いだろうが、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで指揮をとったイギリス海軍提督だ。トラファルガー海戦でも、フランス・スペイン連合艦隊を破りイギリスを勝利に導いた。

ネルソンにも妻がおり、いわゆるダブル不倫の状態となってしまった。とはいえ、ネルソンはエマと付き合っていた6年間のほとんどを海上で過ごしていたため、2人のやりとりは手紙が主だったという。

このスキャンダルは2人の名声に傷をつけた。

1800年、ウィリアムとエマはナポリからロンドンに戻る。エマのロンドンへの帰国を、新聞もこぞって取り上げた。

翌年、なんとエマはネルソンの子どもを出産する。それでもウィリアムと同居し続けるという、不思議な家族関係が続いた。

上流階級からの転落

美貌の衰え

ジェームス・ギルレイ「Dido in despair!」1801年

エマがロンドンに戻ってきた直後、36歳の時に描かれた風刺画。醜く太ってしまい、美貌の影もなくなってしまった姿を、皮肉って描いたものだ。彼女の後ろには眠る夫が描かれている。

下部に書かれた文章は、エマのネルソン提督に対する叫びが描かれている。この時、ネルソン提督は第2子を妊娠したエマの傍にはおらず、また海に出ていた。

‘”Ah, where, & ah where, is my gallant Sailor gone” ? –
“He’s gone to Fight the Frenchmen, for George upon the Throne,
“He’s gone to Fight ye Frenchmen, t’loose t’other Arm & Eye,
“And left me with the old Antiques, to lay me down, & Cry.’

簡単に訳すと、「私の勇敢な提督はどこへ行ってしまったの?」「フランス兵と戦いに行ってしまった」「そして腕と目を失ってしまった(ネルソンは戦中片腕と片目を失っている)」「古い家具と一緒に私を置き去りにして、私はただ泣いている」などと書かれている。

タイトルの「ディドー」とは、ギリシャ神話に出てくるカルタゴ女王の名前。叙事詩「アエネーイス」内のエピソードでは、ディドーの恋人のアイネイアースが神託を受け、イタリアに船で旅立ってしまう様子が描写されている。この作品は、常に船に乗っていたネルソンをアイネイアースに、置いていかれるエマをディドーになぞらえたパロディでもあるのだ。

相次ぐパトロンの死

夫ウィリアムは1803年に亡くなり、ネルソン提督は、1805年にトラファルガー海戦で負傷しイギリス勝利の報告を聞きながら戦死した。

夫ウィリアムと愛人のネルソン、どちらも相次いでなくなり、後ろ盾をなくしたエマは、見る見る間に落ちぶれていった。

武器であった容姿も衰えたエマには、人生で身に着けた教養がまだあったとはいえ、世間の関心はもう集められなかった。

50歳で迎えた悲惨な最期

ウィリアムによって残されたわずかな遺産も食いつぶし、遺された家も売りに出すほど、エマは多額の借金を抱えていた。借金によって逮捕されたこともあった。

一時期上流階級の仲間入りをしていたファム・ファタールは、その後パリに逃亡、アルコール依存症となって50歳で人生の幕を閉じた。


波乱万丈すぎる人生だったが、美貌だけでここまで成り上がれる物語が本当にあるのだな、と感心してしまった。

肖像画を見ればその美しさは一目瞭然だが、叶うなら写真でも見てみたかった。

この展示を見たことで、彼女もまた、私の中の「イギリスの耽美」カテゴリの仲間入りをしたのであった。

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