日本の画家で一番好きなのは誰か、と問われたら伊藤若冲と答える。
その出会いは中学2年生の時からだ。ここ10年は最新の情報をずっと追い続け、関連する展覧会にはかなりの割合で行ってきたと思う。4年前に渡英してからは日本の展示はなかなか行けていないが、去年はパリで行われた展覧会で、久々に一挙公開された「動植綵絵」を見てきた。
そして先日、日本に一時帰国した時にちょうど上野の東京都美術館で「奇想の系譜」展がタイミングよく開催されていた。一筋縄ではいかない画風を持つ江戸時代の画家たちの作品をまとめて見せる展示で、メンバーの中には若冲もいた。
このたび、若冲の作品について改めて気づいたことがあり、「ああ、なるほどね」「逆になぜ今までそう思わなかったのだろう」というほどストンと腑に落ちたので、それについて書いていきたい。
動植物に向けられた若冲の目
若冲は生き物の絵、特に「鶏の画家」として名高い。多くの鶏を庭に放ち、まずはじっと観察し、それから数多くの写生をしたという。その観察力から、隅々まで描き抜かれた生き生きとした鶏の描写が生まれた。
その表現は執念と呼ぶにふさわしい。徹底的な観察を土台にし、現実を超えたリアリズムですべてのものを描き出す。その圧倒的な緻密さには驚愕を通り越して笑いたくなってしまう。
また、その魅力はモノクロームの水墨画でもいかんなく発揮される。若冲の水墨画には、色がある。墨の濃淡だけでこんなにも色の違いを出せるのかというくらいだ。
彼の作品の中には、さらに緻密を極めたモザイク様の作品や点描画のような作品、逆にさっとひと筆で書いたようなゆるカワなものもある。数は動植物より少ないが、人物像や仏像、風景をモチーフとした作品もある。
とまあ、細密作品以外にも数多のスタイルと魅力を持つ画家なのだが、それは今回おいておくとして、やはり彼の代表作は「カラフルで細密な動植物画」であることは周知の事実である。
その中でも有名なのが、さまざまな動植物を描いた30幅のシリーズ「動植綵絵」だ。
若冲の作品のモチーフに選ばれているのは鶏だけでなく、その他の鳥、動物、虫、魚介類、植物、花など自然にあるものや生き物が多いことが特徴だ。
当時の日本にはいなかった異国の生き物や珍しい動物も登場するが、基本的には実在する生き物が描かれている。
例外としては、鳳凰の絵があげられる。龍や麒麟なども描いてはいるが、鳳凰は特にお気に入りの幻獣だったようで若冲は繰り返し描いている。この作品は今回の「奇想の系譜」展で実物を見ることができた「旭日鳳凰図」。信じられないくらい鮮やかに色が残っている。
また、彼の絵が完全に写実的かというと、それも違う。鶏たちはまるで舞台役者のようなポーズをとらされているし、「群魚図(蛸)」で子どものタコが親ダコにくっついているような遊び心が加えられていたりと、想像力で補完されている要素も多分にある。
だがやはり、若冲作品で一番印象的なのはこの動植物を描くことに向けられた眼差し、つまり「執念」であり、彼の絵を見れば、「ああ、この人は本当に植物や動物を愛していたのだろう」と誰もが思うに違いない。
このヘチマの絵には、群がるバッタやカマキリといった小さな虫までが丁寧に描かれている。ヘチマの葉にはところどころ虫食いの穴が空いている。この虫食いはしばしば若冲の作品に登場する、死や老いの表現である。
食べるものと食べられるもの、生きているものと死にゆくもの。自然の摂理をありのままに描いているように感じられる。
若冲の描く花鳥画は宗教画である
私は以前から、細密描写で生き物や植物を描く若冲の絵は博物画に近いのでは、と思っていた。博物画にしては情熱と執念が詰まりまくっているので、そう思いながら「何か違うな」という違和感を覚えたのだけど。
ただ、今回某所で行われた「奇想の系譜」展の解説講演を聞いた時、「若冲は敬虔な仏教徒だったので、小さな虫でも殺さない不殺生の教え、万物(一切衆生)に仏性があるという教えが作品にも反映されているのだろう」といったような一節があり、そこで稲妻が走ったように理解したのだ。
ああ、これらの絵は、彼の描いた鳥や動物や虫や花や植物は、宗教画だったのだ、と。
若冲が信仰に篤かったことは知っていたにもかかわらず、この日までこの考えに至ることがなかったことが逆に驚きだ。
これは、いわゆる西洋美術でいう宗教画、「キリスト教絵画」とはニュアンスが異なる。キリスト教では明確に崇めるただ1つの神がおり、それは風俗画(日常の風景)や自然といったものからは完全に切り離されている。
だが、仏教は、若冲の作品は違う。森羅万象のもの、人間も自然もへだてることなく輪廻の中にいるという仏教では、そこに境はない。人間も鳥も花も虫も、皆仏になれるのである。
もちろん、仏教だけでなく日本人の根幹にあるアニミズムの思想も融合していることだろう。
現実にある生き物や植物を徹底的に観察し、徹底的に描き出した若冲の目には、それらのモチーフはただの生き物として写っていたわけではなかった。
これは彼の宗教画であり、そして彼の祈りだったのかもしれない。信仰心に、「執念」の出どころの片鱗が見えた気がした。
であるならば、この神々しい白鳳なんかは仏や神を描いたものなのではないか、とすら思えてしまう。
「動植綵絵」には、鶴や鳳凰などの吉兆のシンボルである生き物や、仏教に欠かせないモチーフである蓮池など、明らかに信仰や宗教に関係する要素も出てくる。そして「動植綵絵」は、元々は仏像の絵と共に相国寺という寺に寄贈するために制作されたものなのだ。
これが宗教画であるのは当然である。
ここまで条件が揃っているのにそうだと気づかなかった私は、おそらく西洋美術的な宗教画の定義に染まりすぎているのかもしれない、と少し反省した。
「宗教画とはわかりやすく人工的であり、他のジャンルとは明確に隔てられるものだ」という考えにとらわれていたような気がする。
信仰が生み出す芸術のパワー
洋の東西を問わず感じるのは、古来から宗教や信仰が驚異的な芸術作品を生み出す有力な原動力であったということだ。
制作者本人が敬虔な信者である場合もあるし、注文をしたクライアントがそうである場合もある。そこでの制作には情熱、熱量が注ぎ込まれる。
また、制作者が宗教というモチーフから離れてより自由な表現をしたくても、社会や文化がそれを許さなかったケースもある。その場合、芸術家は許される範囲で試行錯誤し自分の表現を達成しようとしたのだ。そこに生まれた創意工夫は新しい様式やスタイルを生み出し、時にはセンセーションも引き起こした。
そのパワーはすごいものだ。こんなにもすさまじい技術や材料、情熱、執着を投入して作品を作らせてしまうその力には恐れ入る。
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ここまで思うところを書いてきたが、宗教画か否かというジャンル分け自体に大した意味はない、と個人的に考えている。だが、大好きな若冲の作品の新しい見方を得たことで、また少し楽しみ方が広がったような気がした。
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