Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。
本シリーズのこれまでの記事はこちら。
前回の記事「博物館展示からロンドン史を見る④中世ロンドンの文化と人々の暮らし」に続き、1000年以上あるイギリスの中世の後半(1000~1500年頃)の、人々の暮らしを垣間見ていこう。今回は、「黒い死」ペストの大流行から、中世の終わりまで。
最初から言ってしまうが、大変悲しいことに、中世のロンドンは衛生観にせよ技術にせよ、古代ローマより劣っているというのが正直なところである。
古代ローマ人が根付かず、彼らの文化も残らなかったことから、イングランドは偉大な発明の多くを忘れてしまった。
1348年:黒死病(ペスト)の大流行で大幅な人口減
ロンドンは市として発展し、人口も増加の一途を辿っていたが、ここに来て、アジアからやってきたペストがヨーロッパを襲った。イングランドも例外ではなく、「黒い死」の打撃を受けた。
ペストとは
ペストとは、ペスト菌が原因の感染病で、「黒い死」「黒死病」とも呼ばれた。症状は倦怠感、高熱、肌が黒くなる、リンパ腺が腫れる、などだ。リンパ腺や臓器で毒素が生産され、適切な処置をしなければ数日で死に至る。
当時、イングランドで一番進んでいた地域がロンドンだったとはいえ、ペストへの対応策があるわけもない。多くの人がばたばたと死んでいった。
なんと、1年半で、当時のロンドンの人口の半分(4万人)が死に絶えてしまったのだ。
100年経たずに粟粒熱も流行
ペストで息絶え絶えのロンドンをさらに襲ったのが、1485年にヨーロッパのみで流行した粟粒熱だった。めまい、寒気、頭痛、四肢の激痛、発汗が特徴で、英語では「sweating sickness(汗をかく病気)」と呼ばれた。急に発症し、数時間で死に至ることもあったという。
この病気は、2人のロンドン市長、その他10人ほどの役人の命も奪った。しかし不思議なことに、1551年の再流行を最後に、世界にはこの病気の発現例は見られなくなり、現在でもこれについてはよくわかっていないという奇病なのである。
中世ロンドンの病院と治療、衛生観
中世のロンドンにも、医者や薬剤師はいた。お金を払える人は、直接医者にかかって治療を受けていた。おそらく、それは病院ではなく、1人又は少人数でやっているクリニック的なもの、または家に訪問診療する形だったのだろう。
前の記事で、修道院や教会が病院を運営していると書いたが、そうした病院は医者にお金を払えない貧しい人たちの治療を行っていた。つまり、病院には医者はいなかったのである。
初めて医者や薬剤師を常駐させた病院は、1517年に建てられたサヴォイ・ホスピタルだった。これは王ヘンリー7世が「貧しい人々のための病院を建てよ」と遺言と資金を残して、建てられた病院だったという。なんて立派な王なのだろう。
このコインは、病気に対するお守りとして使われていた。大天使ミカエルの姿と、神やキリストに対して救いを求める言葉が彫られている。
当時の医者は、「入浴が健康にいいかどうかわかっていなかった」らしい。清潔な体と水が健康に良いということを知っており、大浴場まで作り定期的に入浴していた古代ローマ人とはえらい違いである。1400年くらい前に入ってきた知識は、この頃には消えてしまったようだ。
しかし、こうした個人の衛生用品(くしや耳かき、ピンセット)などは使っていたようだから、今の私たちと同じ身だしなみはある程度していたのだろう。
テムズ川から発見されたさまざまなゴミ
テムズ川はローマ時代から交易に大きな役割を果たしており、外国からの荷物を船で輸入する動脈だった。多くの船が、外国の食べ物や製品をイングランドに輸入し、イギリスの特産品である布製品、特に羊毛製品(輸出品の88%を占めていた)を外国に輸出するために頻繁に川を行き来した。
これは羊毛製の襟足。ロンドンの労働者のうち、半数が布製品に関するギルドに属していたという。布製品はイングランドにとって一番の産業であった。
また、テムズ川からは多く魚が捕れたほか、人々は川の水も飲んでいたらしい。ただ、ゴミも川に投げ込んでいて、ゴミが山になって川の縁に積みあがっていたというから、衛生的な水にはほど遠かっただろう。
ローマ人が支配していた時代には、複雑な水道網まで引いていたというのに、どうしてこうなってしまったのか。
古代ローマ人は水洗トイレも持っていたが、中世のイングランドには水洗トイレはなかった。1500年代に王家に初めて水洗トイレが導入されたという。
どうしてこうなってしまったのか(2回目)
古代ローマ人がロンドンに住んでいた時代の、進んだ技術については本シリーズ第2弾の記事からどうぞ。
この写真に写っているのはすべて、テムズ川の中から発見されたものである。まあ、下のいかりは船で使っていたものが外れてしまった(か、壊れたのでゴミとして投げ込まれたか)のだろうと思うが、剣なども捨てていたのか……。
だが、トランペットはないだろう……。しかしこれが現存している中世のトランペットで最古のものだというから、皮肉である。
船上で使っていて、偶然落としてしまった可能性もある、と解説には書いてあった。まあそういうこともあるかもしれない。
宝物を巡って
このパネルには、イギリスの詩人チョーサー「カンタベリー物語」の中の1話を表した場面が3つに分けて彫られている。
当時の最新流行の服を着たフランドル(今のベルギー)の若者たち3人。1人が他の仲間に酒を渡している。
3人はお宝を見つけ、すべて自分のものにしようと争う。そのうち、左の剣を構えた1人はあとの2人を刺し殺してしまう。
仲間を殺し宝を手に入れた男は、事前にもらっていたワインを飲んだ。しかし、そのワインには毒が入っており、男は死んでしまう。他の男も、もともと仲間を殺そうとしていたのだった。
この場面の下を狐のような動物が横切っている。狐は、西洋ではずる賢さのシンボルとして表現されることが多かった動物だ。この狐も毒入りワインの背景を表しているのかもしれない。
実話なのかはわからないが、こういったどろどろした争いは、どの時代にもあったのだろう。
まるでRPGゲームに出てきそうなくらい典型的な見た目の宝箱。ゴールドの指輪などの貴重品を入れる箱として使っていた。
右に展示されている大きな鍵は、革のベルトに取り付けられている。このベルトは当時の裁判所のドアマンのものだったそうだ。
中世ロンドンの食文化
ロンドンの人々は、魚はタラ、ニシンなどの他、テムズ川から獲れたサーモン、ウナギ、チョウザメ、カワカマスなどを干物にしたり酢漬けにしたり、焼いたりして食べていた。
また、外国人が驚くほど、さまざまな動物の肉を食べていたようだ。メジャーな牛や豚のほか、孔雀、白鳥、サギ、鳩などもよく食べていた。また時にはイルカ、アザラシ、フクロウなども食べることがあったという。フクロウは初めて聞いたな……食べられるのか……。
腐った肉や魚を売った者は罰された。公衆の面前で身動きをとれなくされ、自分が売った腐った食べ物を鼻の下で燃やされるという、「目には目を歯に歯を」方式の刑罰があったようだ。
これは当時のビールマグ。1500年代までに、ビールはイングランドで人気のアルコールとなった。
書物と眼鏡の発達
現存しているもので最古の眼鏡。このタイプの眼鏡を使っている様子の絵も残っている(右)。
人々はこれで、この時代に出てきた技術の賜物——書物を読んだのである。
西洋では、1445年頃、ドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明した。その技術はヨーロッパ中に広がり、書物が刷られ、情報を広く多くの人に共有できる時代が始まった。
ロンドンで初めての印刷所ができたのは、1476年。活版印刷ができてからたった30年後のことである。1500年までには、300人の職人が本を刷り、販売していた。
この「聖人の生涯」という本は大変人気があり、ロンドンの印刷所だけでは需要に応えきれなかったので、外国で大量に刷られたという。
活版印刷により、文字は同じものを量産できるようになったが、1500年代には、それにさらに絵や装飾を付け足したものが富裕層の間で流行した。挿絵や装飾は1つ1つ手作業なので、コストもかかったわけだが、大変価値があるものとみなされていた。
写本は、ほとんどがキリスト教に関連した内容である。
写本画家がパレット代わりに使っていた牡蠣の殻。この上で絵具を混ぜ合わせたり溶いたりしていたのだという。
*
さて、もうイングランドの中世は終わる。時の王ヘンリー8世がとんでもないことを行い、イングランドでは宗教改革が起こるのだ。そして時代は近世に入っていく。
次の記事は、ヘンリー8世のやんちゃ(ではすまされないが……)が引き起こした宗教改革について。
Museum of London
住所:150 London Wall, London EC2Y 5HN
入場無料
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