大英博物館の「北斎展」は画家の生き様をこれでもかと見せつけた展示だった

大英博物館
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大英博物館で始まった葛飾北斎の展覧会、Hokusai beyond the Great Wave(北斎 ―富士を超えて―)(~2017年8月13日まで)に行ってきた。

世界で一番有名な日本人画家の、円熟期の作品を紹介する展示で、北斎の情熱と天才的な技術、そして絵師としての生き様を真っ向から鑑賞者にぶつけたものだった。

「ぞくぞくした展示」は久しぶりだ。

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人、人、人……激混みの展示室

平日の昼間に行ったのだが、ものすごい混み具合に驚いた。これまで大英博物館の特別展は何度も来ているが、今回が一番混雑している。

さすが日本が世界に誇る北斎である。

富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」を現代の摺師が再現する映像を室内で流していたのだが、その技術に皆釘付けで、「どうやったらあんな繊細な彫りができるのか」と映像を見てもなお驚いている声も聞こえてきた。

西洋画を描いた北斎

当時、鎖国状態であった日本にも、西洋画の影響は届いていた。鎖国といってもポルトガルやオランダなどのごく限られた国とは貿易をしていたから、海外の物品は定期的に日本へ輸入されていたのだ。

「驟雨」1824~26年

西洋画の影響を受けた北斎の作品。これは版画ではなく肉筆画である。

明暗法、遠近法が使われている。いわゆるそれまでの平面的な「浮世絵」とは一線を画し、立体感の出た作風となっている。紙はオランダ製だそうだ。

北斎は1760年生まれだから、これは60代半ばの作品。還暦を過ぎてもなお、外の新しい技術を取り入れようとするのはすごい。90まで生きるわけだ。

「富嶽三十六景」斬新な構図と色使い

「富嶽三十六景」は、1823年から制作が始まり、1831~35年に世に出たと考えられている。版画なので複製はいくらでもきくわけで、世界中に多くの版が出回っている。

これを発表した1831年、北斎は72歳である。この時北斎は厳しい環境に合った。
2番目の妻が亡くなり、孫の作った借金を抱え、自身も持病の発作に苦しんでいたのだ。

そんな過酷な状況から、世界に名を轟かせる名作が生まれてきたのだから、わからないものだ。

「富嶽三十六景」には大きな特徴が2つある。

  • 遠近法を利用していること
  • プルシアンブルーを使っていること

プルシアンブルーとは、当時海外から輸入していた貴重な青色の人口顔料だ。輸入当初は値段も高かったが、北斎が使った頃は価格が下がって入手しやすかったという。

「 凱風快晴(ピンク富士)」

同じ富士を描いたものでも、色の使い方によって全く異なる趣が出る。これは薄い赤で刷られた富士山の作品。別名をピンク富士。

「 凱風快晴(赤富士)」

こちらはより濃い赤で刷った富士山。こっちの作品の方が有名だろう。調査により、ピンク富士の方が先に刷られたものだと判明した。

「山下白雨」

こちらは構図はよく似ているけれど、また違う富士だ。同じ富士でも、こうも色によって違うものかと思う。

これは画像よりも実物で見たほうが何倍もわかりやすい。

「尾州不二見原」

職人が制作中の桶に囲まれた空間に富士を置くという、この斬新な構図。こんな富士山の見せ方ってある? 斬新すぎる。表現の上手さもさることながら、構図が完璧すぎて驚く。

「富嶽三十六景」は、その名の通り、富士山の見える景色を描いた46種類の版画である。最初は36種類だったが、人気におされさらに10種類を追加した。名前はそのまま三十六景と呼ばれている。

北斎は職人を尊敬しており、絵に描くことも多かったといわれる。

ちなみに、人体表現の巧みさは、接骨家のもとに弟子入りして、接骨術や筋骨の解剖学を学んだことによる。とにかく「描く」ことを極め続けたのだ。

「五百らかん寺さゞゐどう(ごひゃくらかんじさざえどう)」

建物から富士山を拝む観光客の図。
富士山が現代のイラストチックでとてもかわいい。これも遠近法を大胆に使った例だ。

「神奈川沖浪裏」

そして知らない人はいないこの作品。やっぱり何度見ても波に目が行ってしまい、中央の富士を見逃しそうになる。

でも波の流れをたどっていくと、反り返った波の先から、富士山に視線が行く構図となっていて、計算しつくされている。

「波の爪先が船をつかまえているようだと、だれもが感じるだろうね。」

—ヴァン・ゴッホ

日本美術が大好きなゴッホは、北斎に傾倒していた。この一節は、弟のテオに宛てた手紙の中で、「神奈川沖浪裏」の素晴らしさを語っていたものだ。

自然を愛した目

© The Trustees of the British Museum

「富嶽三十六景」の後にこの作品を含む植物画が展示されていて、これを見た瞬間なぜだか泣きそうになってしまった。
「富嶽三十六景」にようなドラマチックな作品とは対照的に、静かな絵だった。でもなんだか、「富嶽三十六景」に劣らぬほど、北斎は見たもの、自分が見た世界を愛していたような印象がこの絵からするのだ。

それは特別この絵だけということではなくて、北斎の一連の作品を見まわしてみると、そこに愛が感じられるのだ。

「引っ越しのサカイ」があった

「飛越の堺つりはし」1834年

これはちょっとびっくりして「えっ!?」となってしまったもの。あの某引っ越し業者のCMで有名なフレーズと同じ音がタイトルになっていたものだから、「もしやあの引っ越し会社はここから社名をとったのでは……」と勘繰ったほどだ。

だが「飛越の堺」とは、「飛騨と越中の国境」という意味なのだった。そして引っ越し会社の方も調べてみたら、「大阪の堺」で創業したからという理由に過ぎなかった。

地味な奇跡を見つけてしまった感じだ。これを誰かに言いたくてしょうがない。

死ぬまで「真正の画工となりたかった」北斎

北斎は芸名を生涯に30回以上も変えた。そのうち6つが有名だが、「北斎」もその1つにすぎない。中でも私が好きなのは「画狂老人」だ。卍(まんじ)の号と合わせて使っていた。

その名のごとく、北斎の人生は狂ったように絵を描く人生だった。

「鬼図」1848年

「雲龍図」1849年

これらは晩年の作品で、北斎90歳の時のもの。死ぬ直前に描いたと言ってもいい。

「天我をして十年の命を長ふせしめば……
 天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」

「あと10年……いや、5年命があとあったなら、本物の画家になれたのに」という意味だが、どこまでストイックな人だったのだろう。彼が本物でなかったら何だというのか。

それだけ絵に執着し、人生を捧げた人だった。

「富士越龍図」1849年

これも晩年に描いた作品だが、これは時期もあいまって、なんだか北斎の画家魂が天に昇っていっているのかも、なんて妄想してしまう。

ここに載せられていないもので、素晴らしい作品もたくさんあった。北斎という人の壮烈な生き様を見せた、感動的な展示であった。

日本への巡回展は2017年10月から

日本のあべのハルカス美術館にも10月から巡回するようだ。

あべのハルカス美術館

〒545-6016 大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階

2017年10月6日(金)~11月19日(日)
前期:10月6日(金)~10月29日(日)
後期:11月1日(水)~11月19日(日)

行く価値がある展示だと思うので、日本にいる人はぜひ見に行ってほしい。


「人生の糧にする美術展の見方は、思い切って「飛ばし見」すること」でも「本当に『ビビビ』な作品に巡り合えるのは、人生のうち数回であると私は思っている。」書いたのだが、ここでひっさびさにその「ビビビ」とくる作品を見つけて立ち尽くしてしまった。

その作品についてはこちらの記事をどうぞ。

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コメント

  1. 匿名 より:

    引越ではなく、飛越だろうに。