Museum of London(ロンドン博物館)の展示をもとに、ロンドンの歴史を物語のように解説するシリーズ。今回は、中世のロンドンの人々の生活について見ていこう。
1つ前の記事はこちら。
本シリーズのこれまでの記事はこちら。
イギリスの中世はとても長い。410~1558年と1000年以上の期間が中世に区分される。この記事ではその後半、1000~1500年頃までのことを紹介する。
フランス系支配者と戦争の時代
前回、イングランドにノルマン朝ができて以後の流れはこうだ。
- 1066~1154年:ノルマン朝時代。ヴァイキング系フランス人のノルマン人が征服
- 1154~1399年:プランタジネット朝時代。フランス貴族プランタジネット家による統治。この時代にアイルランドを征服。百年戦争(注1)始まる。
- 1399~1461年:ランカスター朝時代。プランタジネット家の分家であるランカスター家による統治。百年戦争終わる。
- 1455~1485年:薔薇戦争(注2)。
- 1461年~1485年:(薔薇戦争の途中)ヨーク朝時代。ランカスター家当主の弟(ヨーク家)による統治。
- 1485年~1603年:テューダー朝時代:ランカスター家系のヘンリー7世がヨーク家を倒し、テューダー朝を開く。
これがイギリスの中世時代である。見てお分かりと思うが、イギリスの王族は全部フランス出身の家系なのだ。
そして1276~1453年の180年間は、大きな戦争が相次いで勃発した時代であった。イングランドがウェールズ、スコットランドに侵攻、さらに1337~1453年まではフランスとの百年戦争が起こった。
注1:百年戦争(1337~1453年)
百年戦争は、もとはフランス系の貴族が支配しているイングランドと、フランスの戦いなので、ほぼお家騒動である。フランスの王位継承に関して、フランスの血を引くイングランド王家が「それは認めない」としゃしゃり出てきたことにより(それ以外の色々な事象も関係はしているのだが)、休戦期間も含め百年にわたる戦争を引き起こしてしまった。
ちなみに、この百年戦争中にフランス軍側として戦った1人に、ジャンヌ・ダルクがいる。
結果的にはイギリスが勝利し、イングランド王は「フランス王」の称号も手に入れることになる。
注2:薔薇戦争(1455~1485年)
また、このランカスター家とヨーク家は兄弟でどっちがイングランドの王権を握るかで戦争をした。これもさらに内輪のお家騒動であり、薔薇戦争と呼ばれる30年に及ぶ戦いである。このなんだか美しい名前は、ヨーク家のシンボルが白薔薇、ランカスター家のシンボルが赤薔薇だったことに由来する。
途中、ヨーク家が一度勝ち、ヨーク朝を開いたのだが、再びランカスター家に倒されて戦争は決着する。1485年にヨーク家は滅び、ランカスター家系の王がテューダー朝を開く。
鉄の鎖でできたシャツ。これはもちろん一般着ではなく、兵士の鎧として使われていた。
近くで見るとこうなっている。作るのにかなりのコストと時間がかかったため、限られた人しか使えなかった。ほとんどの兵士は皮のジャケットだけという軽装で戦争に臨んだという。
ちょうどその頃の子どもが遊んでいた、騎士のおもちゃ。お人形ごっこなんかをしていたのだろうか。
さて、これからは1000~1400年代のロンドンの人々の暮らしを紹介していきたい。
中世(1000~1500年)のロンドナーの暮らしと文化
キリスト教が生活で大きな役割を担う
前回から引き続き、イングランドのメイン宗教はキリスト教である。ロンドンには、1100年までに100を超える教会や修道院が建てられた。
教会は単に信仰の場だけではなく、学校、病院、ホームレスのシェルターを提供する機関でもあった。
病院は、寄付により建設費用が捻出され、修道僧によって運営されていた。当時一番大きかった病院は、現在のスピタルフィールドというエリアにあった聖マリア・スピタル病院で、ベッド数は90床。
画像は、聖マリア・スピタル病院で使用されていた、患者のロッカー用の鍵と見られるもの。右上の銀貨は、同病院の墓地で見つかった。故人の墓に埋めることで、カトリックの人が死んだ後の「清めの期間」である煉獄の期間を縮められると考えられていた。いわゆるワイロのようなものである。
特定の疾患を扱う専門病院もあり、1247年に建てられたBethlehem病院は、後に精神病院となり、現在も運営されている。
詳しくはこちら。
セント・ポール大聖堂再建
アングロサクソン人が600年代に建てたセント・ポール大聖堂は、1087年にヴァイキングが焼き払ってしまった。ヴァイキングの子孫であるノルマン人はノルマン式セント・ポールを再建しようとした。が、その進みは亀の歩みで、再建着手が1241年、完成が1320年代であった。
再建された大聖堂がこちら。現在の丸いドームがある姿(↓)とは異なり、このように尖塔を持つゴシック様式であった。最初期のゴシック様式建築物だ。
当時のロンドンでは一番大きな建物であったという。
ロンドン市長という役職とギルド制度ができる
フランス出身のノルマン人は、イングランドに「市が自分たちの政治を行う」という概念をもたらした。これまでイングランドはすべての土地がイングランド王によって治められてきたわけだが、ここから、ロンドンのみを治める「ロンドンのリーダー」という役職が出来上がったのである。
1189年に初のロンドン市長となったのは、ヘンリー・フィッツ・エイルウィンという人物であった。祖父の代から、ロンドンの権力者であった家系らしい。
上の画像は、いわゆる日本でいう印鑑みたいな、シール(公印)と呼ばれるものである。大きいのは市長がロンドン市を代表するものとして使っていたもの、小さいのは個人が使っていたものである。書類のサインなどに使われたのであろう。
ロンドン市のシールは、1219年~1957年とごく最近まで使われていた。大変重要なものだったので、紛失、損壊したら代わりがすぐに作られたという。
フリーメイソンの基にもなった? ギルドという職人組織
商人、職人たちは、「ギルド」という団体を作っていった。これらは産業、商売を取り仕切る組織となり、職人希望の若者たちはまず徒弟としてギルドに入って訓練を積まなければ、物を売らせてもらえなかった。
革職人のギルドで作られていたとみられる革靴と革のベルト。この靴は当時流行のスタイルだったらしい。700年以上前なのに、ロンドンの人々は今とほとんど変わらない靴を履いていたのだ。
石工職人のギルドは、フリーメイソンの基になったとも言われている。
ロンドンの人たちの生活はどんなものだったのか
建築物の装飾として取り付けられていた若い女性の彫像。顔の周りを布で覆うファッションだったようだ。修道僧のようにも見える。
骨や木、象牙から作られたこの円形のものは、当時遊ばれていたチェスゲームの駒だという。当時は「tables」と呼ばれていた。実は、チェスの起源はインドで、後にヨーロッパに伝わり、1100年頃にはイングランドでも人気のゲームになっていたという。
この顔つきの壺は当時の流行で、ロンドンの陶工職人はこうしたスタイルの壺を多く作っていたそうだ。ユーモラスな表情で顎を押さえている(実はあごひげを引っ張っているらしい)のがなんか可愛い……。
貧困と飢饉
こうした物だけ見ると、ファッションもちゃんとしていて、ゲームも嗜み、遊び心のあった暮らしをしているように見えるが、実はロンドンに住む人の多くは多くの物を持てず貧困であった。
また、1315~1322年は寒冷な気候により、農業が大打撃を受け、飢饉が起きた。10人に1人が飢えか病気で亡くなったという。10%とはすさまじい割合である。当時の記録には、地獄絵図のような光景が描写されている。
人々は猫を食べ、馬を食べ、犬を食べた。(……)そして子どもたちをさらい、食べた。
1322年には、50人の男女が、施し物を求めて修道院に詰めかけたという記録も残っている。その中には看護師として働いている人もいた。働いていても生活がままならなかったのである。
そんな中、さらにアジアから忍び寄ってくる黒い影があった。
そう、黒死病(ペスト)である。
次の記事では、ヨーロッパを一気に襲い、ロンドンの人口も大幅に減らしてしまう病魔、ペストがやってきたところから中世の終わりまで。ロンドンはどうなってしまうのか。
Museum of London
住所:150 London Wall, London EC2Y 5HN
入場無料
コメント