ロンドン、ウェルカム・コレクションの精神病院をテーマにした展示「Bedlam: the asylum and beyond」(~2017年1月15日まで)に行ってきた。
この展示をもとに、昔のイギリスの精神病院の様子についてここでは紹介していきたい。
展示のタイトルにあるBedlamとは、精神病者を収容する施設の先駆けとして、ロンドンに1247年に建てられた建物の名前。今でも精神病院として経営されている。
「我々の精神は様々な側面を持っている。医学的、心理的、社会的、宗教的、環境的なもの。何が‟正気”で何が‟狂気”なのか、という境界線はいまだに議論が絶えない。(……)古代の世界では、Asylum(保護施設)は宗教的な場所であった。西洋の思想により、Asylumは精神病者を扱う場所になっていった。
Asylumの歴史では、医師、画家、宗教家、芸術家、権威者、革命家などによって、精神病に関する様々な捉え方や解釈が作り出され、試みられ、刷新されていった。こうした積み重ねが精神病の定義を確立させていき、こんにちの精神的治療についての見方を作り出してきたのだ。」 (展示パンフレットより抜粋・訳)
会場内では写真撮影禁止なので、写真は載せられない。中では、Betlam病院の歴史と共に、「精神病」というものがどのような扱いを受け、どのように考えられていたのかの変遷を見ることができた。
古くからある「精神の病」
精神病という認識がまだなかったころだが、アイルランドの昔の伝説に「狂気の王」が出てくる。
7世紀、ディンフナという王女がいた。彼女の父親は、妻が亡くなってから狂ってしまい、王女と結婚しようとした。近親婚から逃れようとディンフナはヨーロッパに逃げ、フランダースの沼地に隠れる。
王が彼女に追いついた時、彼女が王を再度拒んだため、ついに娘の首をはねてしまった。
精神病は医学ではなく法によって定められていた
「insane(狂気の、狂っている)」とはもともとは法律用語だったそうだ。
1714年に精神病者のための「浮浪者取締法」という、精神病者を保護する法律が定められ(1744年改定)、精神病者を懲罰することは違法になった。だが裁判官の判断により、幽閉することが可能になったという。
精神病院は昔は見世物だった
1701年のBetlam病院の様子を描いた版画が展示されていた。資金を調達するため、同病院は中の様子を一般に公開することにした。そこはたちまちロンドンの観光名所の1つとなり、多くの見物人が訪れた。
ある者は純粋にチャリティーのため、だが多くは単にエンターテインメントとして楽しんでいた。
日曜日や休日には酔っぱらって訪れる人も数多くいた。
今回の展示のうち、ある作品は映画『カリガリ博士』へのオマージュだった。
短編映画『カリガリ博士』は1920年に制作されたドイツ映画で、音声のないサイレントフィルムだけど、100年近く前だとは思えないほどよく作られた作品。
ある博士が、眠り病の男を見世物にしている。そのうち彼らの周りでは不可解な殺人が起こり始める……。
最後にどんでん返しがあって、今でも楽しめる構成。映画史の中では影響力絶大で大変評価の高い作品。
精神病患者が書いたアート
精神病患者が病院内で作ったとされるアート作品も多く置いてあった。患者たちは時にすごい創造性を発揮したといい、院内雑誌まで創刊する人々もいたという。
目を引いたのは、もとは音楽教師をしていた精神病患者の作品。1850年代作の、編み物で作った手紙。
彼女は30年以上も精神病院に収容されていたが、決して精神病だという診断を受け入れようとせず、当時の女王、ヴィクトリア女王が彼女を幽閉していると思い込み、女王あての手紙を編み物でいくつも作っていた。
もう一人は、精神病による犯罪で捕まってから、作品を作り続けた患者。彼の創作意欲は誰も止めることができず、2万5000点を超える絵画や詩や記事や曲を作り続けたらしい。
現在はアウトサイダー・アートというジャンルとして認知されている
こういったアートは、現在ではアウトサイダー・アートと呼ばれている。
もともとは、特に美術教育を受けていない人が作る美術作品、という意味でのアウトサイダー。でも現在は精神や知能に問題を抱える人の作品、という意味に転移してきている。
アメリカ人のヘンリー・ダーガーが有名。1973年、彼の死の直前に大家が彼の作品を発見した。
知的障害を持ち、天涯孤独で人と関わることをしなかったダーガーが人知れず書きあげていた、1万5000ページもの、オールカラー300枚の挿絵が入った長編小説。
その名も「非現実の王国で」(下の画像)。
この会場ではヘンリー・ダーガーの作品はなかったけれど、有名どころとしてゴッホの作品もあった。
ゴッホは確かに精神に病を抱えていたけども、アウトサイダーのくくりに入るんだろうか? とこれを書いていて不思議になってきた。
まあどっちでもいい。そこの区別を作る気は私にはないし、正気か狂気かなんて本当にあいまいなものだから。
「この狂った世の中で気が狂うなら、気は確かだ」 (黒澤明『乱』)
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